ジャンヌ

 モディリアーニ展を見に、プチ遠征。
 車中、九スポを精読。浦和が一面かと思いきや、一面はプロレス大賞MVP三沢だったり。ちなみに裏一面は、東国原知事が来年は西都原古墳群をプッシュするというもの。やはり発行年月日以外はウソなのか。

 モディリアーニと妻ジャンヌの物語展。毎度のことながら、嫁に引き摺られるまま予備知識ゼロで鑑賞。デッサンが中心で、ジャンヌの作品が過半数を占める。今までミューズ的なポジションに甘んじていたジャンヌのデッサンなどが遺族によって最近大量に公開されたのを契機に、その検証を経た今、彼女をほぼモディリアーニと同格の芸術家として評価してみよう、というような趣旨の展覧会。
 印象としては異常なまでにフォルムにこだわる人だなあ、という感じ。ジャンヌとモディリアーニではもちろん筆致が違う。しかし、次第に似てくる。両者ともフォルムを重視し、感情を殺し、中身が抜けでた抜け殻のような肖像画を書く。首が長かったり、瞳を描かなかったり、左右非対称に歪めたり、と、フォルムに収められた中身より、フォルムそのものに注目が集まるように描かれている。けど、私の感性がいまいちなのか、作家が感情を殺して描いているせいなのか、あんまり面白くない。しかし、ジャンヌがモディリアーニの死後、二日間に描いた4つの連作水彩画は、強く印象に残った。明らかにモディリアーニの作風を模倣したもの、自らの死を予告したものなどなど。
 ベッドに横たわる自らを黒服の死神と思しき人物が訪問する連作の掉尾に位置する絵は、特におもしろかった。嫁に言われて気づいたのだが、鏡の中に映る彼女は、左右逆には映らない。鏡像なのにまるでホンモノのよう。他者につながる回路を折り畳むaの次元を欠いているような、そんな印象。この絵を書き終わった後、彼女は幼子を孤児として残し、お腹の子供を道連れに自死に至るわけなのだが、そんなドラマチックで悲劇的な彼女の最期がよく示しているように、この絵には未成熟さというか幼児性のようなものが凝縮しているように思う。後先考えない、他者とのつながりを絶った無限退行的、金太郎飴のような自己参照の世界。彼女にとって、他者といえる存在はモディリアーニただ一人だったんだろうか。
 それにしても、入り口で渡されるパンフレットにそれぞれの絵の説明書きがついているのだけども、「まゆげがない」とかどうでもいいことしか書いてない。どうせ書くんだったら、ちゃんと書け、あほんだら。*1
 湯田温泉(人生三度目のユラリ)でひとっ風呂浴びて、近くの日本料理屋でプチ会席に舌鼓。鈍行列車に揺られて帰宅。

*1:嫁によると、以前にピカソ展に行ったときも同じような調子だったそうで。