村上さん

 タバコを吸いたくなったら、「禁煙」「効果」などで検索して、禁断症状をポジティヴに捉えなおすことにしている。はっきりと効果を体感できないのがやや寂しい。「毛細血管伸びてる伸びてる」、とか実感できたら楽しいだろうに。
 
 

 竹村和子+村山敏勝+新田啓子「撹乱的なものの倫理」。メランコリーの暴力的要素やバトラーにとっての他者、それからスピヴァクとの差異について。バトラーの他者は、自己と相互寄生的に関わる概念なので、スピヴァクの他者のような近寄りがたさがない。この辺は、新田の「主権的倫理と倫理的行為体」においてより詳しく論じられている。バトラーの他者は、自己の全能性や自己完結性にまったをかけるネガ(陰画)として位置づけられている。だとすれば、バトラーの他者論というのは自己論の延長に過ぎないのではないか。スピヴァクが主題化するような(文化)翻訳の困難が、バトラーの他者論から抜け落ちているのではないか。というようなところがおもしろかった。
 バトラーは常に自分から出発する人なのではないかと思う。多くの人がそうなのかもしれないけど、バトラーの思索は誰よりも強い自分に対するこだわりや疑問を普遍化していく作業なのではないか。だから、彼女の他者は、自己に新しい光を当てるスポットライトの役割を果たす。他方、スピヴァクは、表象の客体ともなりえていない「サバルタン」を「サバルタン」として、表象の客体として掬い上げると同時に、「サバルタン」を表象の主体としても立ち上げようとしている。スピヴァクの他者は、自己がスポットライトの役を演じることで輝く(と期待される)舞台俳優のようなものか。 メランコリックな自己の精神分析的構成を社会的な他者との関係にも適用しようとするバトラーと、理解しがたい他者と自己との間の物質的条件を冷徹に見つめるスピヴァクの違いは、出発点が違うせいで生まれるのだろうか。レヴィナスを語るバトラーに感じた如何ともしがたい違和感は、たぶんこのへんに淵源をもつのではないかと思う。言語的主体の構成が他者の言語未満の声による呼びかけに依存するとみなすバトラーの図式には、言語から除外されるような他者がどのようにしたら主体化できるのか、あるいは言語の対象として採り上げてもらえるのか、というような問題は含まれていない。うーん。保留。
 ところで件の3者対談に突如として「村上」さん(誰?)が乱入してくるが、ピザ×10→ヒザのような撹乱が起きたのだ、と自分に言い聞かせることにした。