斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ

斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ

 映画(特にヒッチコック)や探偵小説の読解を通じてラカンジジェク理論を理解するための、あるいは後者の読解を通じて前者を理解するための本。私はラカンジジェク理論を正しく理解しているわけではないし、映画批評に精通しているわけでもない。でも、ラカンジジェクの本は二重の意味で面白い。ひとつは、わからなかったことがわかるようになる(わかったつもりになる)という意味においてで、もうひとつはわからないことが増えていく(わかっていることがわからなくなることも含めて)という意味において。デリダラカンの差異については保留。以下、メモ。

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対象a>とは、欲望に「歪められた」視線によってしか見えない対象であり、「客観的」視線にとっては存在しない対象なのである。(34)

 ミレールの図式。現実から<対象a>を取り外すことで、フレームを穴の内側と穴の外側、すなわち現実に取り付ける。(179)

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われわれは何かについて語るとき、その何かの現実性を保留し、括弧に入れておく。まさにそれだからこそ、葬式は象徴化をもっとも純粋な形で例証しているのである。葬式を通して、死者は象徴的伝統のテクストの中に登録され、その死にもかかわらず共同体の記憶の中に「生き続ける」だろうということを保証される。一方、「生ける死者の生還」は正しい葬式の裏返しである。正しい葬式にはある種の諦め、すなわち喪失を受け入れることが含まれているが、死者の帰還は、伝統のテクストの中にはその死者の場所がないということを意味している。[中略] その犠牲者たちの影は、われわれが彼らを正しく埋葬するまで、すなわち彼らの死という外傷を歴史的記憶に組み込むまで、「生ける死者」として執拗にわれわれを付け回す。(54)

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 こうしたポストモダニズム的手法はふつうのモダニズム的手法よりもずっと斬新に見える。なぜなら後者は、<物自体>を見せないことによって、「不在の神」の視点から中心の空無を捉える可能性を残しているからである。モダニズムの教訓は、構造という間主観的な機械は、<物自体>が欠けていても、つまりその機械が空虚のまわりを回っていたとしても、同じように機能できるということである。ポストモダニズムによる反転は、<物自体>を具体化・物質化された空虚さとして見せる。そのために、恐ろしい対象をじかに見せ、それからその恐ろしい効果が構造内でのその位置の効果にすぎないことを明らかにする。恐ろしい対象は日常的な対象であり、それが偶然に<他者>(象徴秩序)の内部にある穴を埋めるものとして機能しはじめたのである。(270-71)

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 ビッグバン理論/ホーキング理論とシニフィアンの論理学のパラドックス(男性的/女性的)との照応関係(93-95)
 象徴的意味の探求/言語的置換(103-05)
 昇華(159-65)
 口唇/肛門/男根(169-73)
 ナルシスト(193)
 対象=視線と倒錯(202-217) 
 失われた環としての<現実界>(226)
 サントーム(247)
 <象徴界>→<現実界>=「<現実界>における穴」=空虚な形式的スクリーン(欲望の投影)=対象a=なんの変哲もないブラックハウス
 <現実界>→<想像界>=「<現実界>の想像化」=主体の中にあって主体以上のもの(巡回する欲動=享楽の具現化)=サントーム=ぶよぶよしたこぶ
 <想像界>→<象徴界>=「大他者は存在しない」=<現実界>の小さなかけら=世界の究極的無意味性のシニフィアン=S(A/)=ボタン
 3者の真ん中で享楽が巡回(252-53)
 サントーム=症候への同一化(256-57)
 「アクティング・アウト」=象徴化の限界を<他者>への接近によって突破することを狙う(対<大他者>)=時計への同一化
 「行為への移行」=象徴的ネットワークからの離脱・享楽の核としてのサントームとの同一化(<大他者>を保留、<現実界>との遭遇)=症候=ハーモニカとの同一化 (258-60)