ニュー・マテリアリズムは週末に

現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論

現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論

現代思想 2015年6月号』
http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791713011 


■連載――●科学者の散歩道●第一九回
  「法の支配」と「ワンダー科学」 「やしの実」 / 佐藤文隆

■連載――●家族・性・市場●第一一二回
  生の現代のために・3 / 立岩真也




新しい唯物論   

【討議1】
生活の分解のために / 篠原雅武+藤原辰史


【物質と思考】
二一世紀のための生哲学 / E・サッカー 島田貴史訳
フェミニズム唯物論・自由 / E・グロス 清水知子訳
クィアエコロジー / T・モートン 篠原雅武訳
「新しい唯物論方法序説(素描) / 藤本一勇


【インタビュー】
建築のマテリアリズム / 磯崎新 日埜直彦(聞き手)


【何処を目指すのか】
唯物論をめぐる応答 特異な個体だけからなる存在論とはいかなるものでありうるか / M・デランダ 近藤和敬訳
思弁的唯物論のラフスケッチ わたしたちは如何にして相関の外へ出られるか / Q・メイヤスー 黒木萬代訳


【討議2】
兆候としてのモノ ネオアニミズム、メディア、資本の時間 / 北野圭介+A・ザルテン


【分散と制御】
加速と隷属 機械状資本論ノート / 水嶋一憲
拡張する表皮 複数化するスクリーンから透明なインターフェイスへ / 難波阿丹
プロトコル 脱中心化以降のコントロールはいかに作動するのか / A・ギャロウェイ 松谷容作・増田展大訳 北野圭介監訳


【批判】
脱-様相と無-様相 様相中心主義批判 / 江川隆男
実在を巡って シャヴィロとハーマン、そしてホワイトヘッドへの批判 / 森元斎


【空間と生命】
人工の都市/匿名の都市 / 篠原雅武
予測と予知、技術的特異点と生命的特異点 / 原島大輔



■研究手帖
そこにある相関主義 / 仲山ひふみ

現代思想』新しい唯物論特集。人間を中心とした哲学に対する根本的な批判を加える、あるいはそのような哲学からの脱却を志向する思弁的傾向と、ひとまずまとめることができるかもしれない。しかしこれはポストヒューマンの思想とは毛色が異なる。新しい唯物論は、人間の内部から批判を加える脱構築的なポストヒューマンの思想というよりは、そのような人間的思考がそもそも及ばない、情動や数学、気候、プロトコルに司られた無機的な、非人間的な、モノの思想(materialism)を志向する。一括りにはできそうもない多様な群れなので、この一群を総括するには相当な力技が要求されると思うし、おそらく総括など受けつけないだろう(暫定的な展望としては、本書中の「兆候としてのモノ ネオアニミズム、メディア、資本の時間 / 北野圭介+A・ザルテン」や『現代思想』一月号における「思弁的実在論と新しい唯物論 / 千葉雅也 岡嶋隆佑(聞き手)」を参照するとよいだろう)。なのでここでは本書と十把一絡げになったモノとしての読後感をつづる。

新しい唯物論の中心的なテーマとして取り上げられるのは絶滅や気候変動だ。だが絶滅や気候変動の話となると、どうしても大きな画期的な出来事を思い浮かべてしまう。しかし本特集に寄せられた論稿の群れを読む限り、むしろ出来事の微細さにこそ注意を払うべきであるように思う。出来事は大きな地殻変動によってもたらされるものではなく、ごく微細な出来事、それゆえに感知するのが困難な震えのようなものの堆積そのものである。それは群発的ながら体感できないような予震のようなものかもしれない。あるいは予震のみで、本震や余震はやってこないかもしれない。いや、そもそも地震とはすべて予震なのかもしれない。アビ・ヴァールブルグが知覚の限界を超えた地震計たらんとしたのは、このような人間主義を超えたモノの次元、情念というマテリアルの領域においてだった、ととらえ直すこともできるだろう。この限りにおいて出来事がとりかえしのつかないものであるのは、それが物理的に大き過ぎて手に余るものだからではない。それはわたしたちの認識に穴を穿つ、あるいは穴があることを指し示してしまうからこそとりかえしがつかない。震源はいつもわたしのなかにある。人間だと信じているわたしの生活のなかで、わたしというモノは揺れる。わたしは人間ではなくモノだから震える。
絶滅や気候変動について想像するということは、人間の終局(たとえば核戦争)を想像することだとよく言われる。環境保護や食糧問題は、そうした終局を防ぐための弥縫策を紡ぐ領域だ。だがそれでは手垢にまみれた終末論と違いはない。ここで問われるべきは、人間などそもそもいない世界、わたしがモノとして在る世界である。出来事が属する場所があるとするなら、それはこのような非人間的なモノのパラレルワールドにほかならない。絶滅や気候変動は、(アウシュヴィッツ絶滅収容所のような)人間にとっての出来事ではない。それは人間のいない、わたしたちが人間であることをカッコに入れ(この点で新しい唯物論現象学を裏返した思弁、つまりモノ自体をカッコに入れるのではなく現象をカッコに入れる思弁だと言える。そのためかつて現象学に向けられた批判が新しい唯物論や思弁的実在論にも当てはまる部分はあるのかもしれない)、モノとして生きていることを想像するための體(からだ)をひらく、いまだ到来したことのない出来事である。そして人間の「命」を起点とはしない、モノとしての生を想像するという投機こそが想像と呼ばれる。出来事が属する非人間的なモノの世界に、認識と経験を裂きながら架橋する想像力の場は仮設される。より過激に言えば、人間について想像することはもはや想像ではない。それは旧知の認識を上書きするに過ぎない。モノであること、モノとともにあることを想像するときにだけ、わたしは想像力を働かせている。思弁的=投機的想像力はモノに宿っている。
出来事(event)は現代思想における鍵語のひとつとしてすでにその地位を確立している。出来事は、過去‐現在‐未来という、はっきりと見える現在を起点に展開される時間軸、及びその常識的時間とともに継起する常識的な認識、あるいは「想定内」という予測可能な範疇と「想定外」とを距てる、人間の想定そのものを暈してご破算にしてしまう。出来事は命あるわたしが考えうる限界を超えるものであり、わたしには経験しえないはずの出来事でなければ出来事しての力を持ちえない。「それ」は、わたしの想定を裏切って不意に到来する。未知の「それ」はわたしのなかに出来する(take place)。出来事は人間であるわたしとは無関係に存在していて、わたしの人間としての生とはかけ離れたものであるかのように映る。けれどもわたしは実際は、出来事の(兆候の)積み重ねのなかに生きている。わたしたちが常識的で変化に乏しいと感じている日常は、実のところ、一回限りの、人間であるわたしが望んだことのない、モノとしてのわたしに到来する出来事が描く軌跡の破線なのかもしれない。この意味で出来事は、時間の延長線上にある目的(the end)や予定調和的な終末(the end)とはいかなる関係をも結ばない。出来事はむしろ、ありふれた週末(weekend)のようなものだ。ただし破局や非知として生きる週末、人間的な命の終末ではなく新しいモノの生がそこから披けてくるような週末。認識も経験もできない、モノとしての想像力とともに営まれている週末。
週末の生の営みは、人間的な命の思考では把握できない。新しい唯物論では、人間的なネットワーク、相関主義に対する批判が先鋭化する。人間的な関係、すなわち主客の関係で把握できる関係を超えたinter-actionなきintra-action、あるいはap-prehensionなきprehensionという無媒介的な「抱握」が主題となる。環境という人間を取り囲むべき緩衝材はもうない。剥き出しのエコロジー、環境なき共生というモノの世界で、わたしたちは直接出来事にさらされている。人間がいないということは、わたしとあなたとを区別することや、自分を外から隔て覆い隠しそれを内部として確保することができないということなのだから。

〔中略〕特に大事なのは、人を治めるに当たって、その見る力や知る力を狭い範囲に留めた神は、なんと恵み深い方なんだろう、ということだ。ほんとうは何千何万もの危険の真っただなかを歩いていて、それが見えるようになれば、人の心は錯乱し、気力は衰えてしまうだろう。人が落ち着き払っていられるのは、ものごとの真相から目を閉ざされ、身を囲んでいる危険をまったく知らないせいなんだ。(『ロビンソン・クルーソー』武田将明・訳 277)

モノを対象化しモノを媒介する人間のいない世界における無媒介性は、形相と質料や有機物/無機物といった、人間が思考するために用いられる「概念」をも廃棄する。思想はマテリアルとなる。形而上学における概念と物理学における物質は分け隔てなく同じマテリアルの位相に共生する。この新しい唯物論において、思想は微細な出来事のマテリアルの一員となる。モノは思想のマテリアルであり、思想はまた別の思想のマテリアルである。人間のいない世界にあっては、モノを対象として把握するための「概念」はその特権的な地位を失う。どんな思弁だろうとモノはモノでしかない。週末は終末について思考するのではなく、犇めきあうモノたちのなかに埋没しながら生きられる。週末は次の週、ただし先週とはまったく無関係な新たな週のはじまりでもある。ウィークデイに働いた人間は週末に休み、思弁的、あるいは投機的想像力は週末に働く。
だがそれでもなお、命ある人間という有限性から、たくさんの先人がのこしてきた清濁混流する毛細状の脈絡から、わたしは自由にはなれない。わたしは終末と週末のあいだで裂かれている。有限性から離れれば離れるほど、有限性は強くわたしを引き留める。モノとしての生という斥力は、わたしの命という引力を挫きはしない。わたしは死ぬ。それは目的論的で予定調和的ながら、しかし確実な終末(the end)だ。セクシーな生と凡庸な命のあいだで、人間としてのわたしは細々と営まれていくのだろう。命が尽きた誰かの生をマテリアルとして貪りながら。命が尽きたあとのわたしの生、誰かの思想のマテリアルとして生きるわたしを想像、あるいは思弁しながら。命はかすかに震えている、何某かの予震として震えている。

でもそのとき、あることを忘れていたのにあとで気がついた。すなわち、空腹はライオンをも手なずけるということを。三、四日、餌をあげずに、あの山羊を穴に閉じこめ、そのあと少し水を飲ませ、その次に少し穀物を食べさせていれば、あいつも子山羊のように懐いたはずだった。山羊は、大切にされればすごく人懐こくなる、利口な動物なのだ。(210)


ロビンソン・クルーソー (河出文庫)

ロビンソン・クルーソー (河出文庫)