カントの主体について

 

美のイデオロギー

美のイデオロギー

 以下、イーグルトンに準拠しつつ、そこに暫定的私見を混在させている。
 予め理性が感性に形式を与えることによって可能となる「美的判断」は、万人の分かち合うことのできる美的・感性的なものの普遍性、共感を介した間主観性に人を巻き込む。他方で人は自然と主体のあいだに相似(自然が人間の認識能力に見合ったものであるということ)を主体的に「認識」し、次いでそれを契機として道徳律の強制によって自らを反省的に高める。*1 つまり美的判断は、より高次元にある認識の濁った反映、ということになる。
 こうしたカントの主体の様相を、イーグルトンはふたつの社会的領域へと分類している。「美的判断」を根拠なき合意形成、すなわち文化的ヘゲモニーの領域として*2。そして「認識」を個人の特殊な利害が生じ衝突する政治的イデオロギーの領域として。
 ヘゲモニーの文化的プロセスに抵抗はなく、それは筆舌に尽くしがたい一体感・統一を滞りなく現出させる。他方、イデオロギーの政治的領域においては、個々人がロゴスによって自らを陶育する結果として、共同体内に利害関係が生じる。
 感性的生活はどこまでも広がる同心円的共同体の地平を人に体感させる*3。理性的生活は、共感や感動には留まらず、ロゴスによって厳しく己を律し、「個人的な」理想に向かって階梯を登り続けるがゆえに、社会的レベルにおいて闘争を生む。
 このような、普遍性の広がりと個別特殊性の高まり、という(おそらくこれは、フーコーのいう経験論的主体と超越論的主体の分裂、そして後者による前者の反省的濾過と雁行する。)ふたつの分裂した生活を矛盾なく保存しているのが、カント的主体の特性だと思う。
 ただし、イデオロギーがそうであるように*4、カントの反省的な主体には根拠がない。神の後ろ盾を持たず、ロゴスによって立ち上げられた自律的主体は、その実、貨幣のように空虚である。従って、ロゴスに拠らない感性的な生活と、理性的な生活は、対象化された自然との関係において、見分けがつかなくなってしまう危険性を孕んでいる。このような混同・混乱を避けるためカントは、低次元の世界(感性的なもの)と高次元の世界(理性的なもの)とを二段ベッドのように分けたのではないかと思われる。

*1:もうひとつ整理がつかないが、カントの主体が反省的に自らを高めるのは、「崇高」体験によるのか。それとも「美」にも「崇高」とは別に自己修養の契機があるのか。

*2:グラムシ

*3:イーグルトンは、感性的なものの世界を商品形態に擬えている

*4:イデオロギーは命題ではない。