カミュ『シーシュポスの神話』

シーシュポスの神話 (1982年) (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (1982年) (新潮文庫)

 生の称揚でも絶望でもなく、未来でも過去でもなく、理性でも感傷でもない、宙づりになった「不条理」の現在を生きる。absurd、生きることはばかばかしいし、くだらないし、意味なんてない。でもその無意味なばかばかしさを生み出すばかばかしい営為がきっと人間の歴史をつくっている。
 でも、たいていの人は生きることに意味を求める。目標や使命感を必要とする。なんの意味も見出せないような人間の不条理を描き続けるカフカのようなばかばかしい生を、あの頃の芸術家なら耐えることができたとして、ではそのような生がみんなのものとして普遍化してしまった時代に、どのようにすればそんなばかばかしさを凌駕する、KYなばかばかしい生き方が可能なのだろうか、とも思う。およそ無益無体な生を、このご時世に想像することができるだろうか。
 すべての人が炭鉱のカナリアになった時代。ニスを塗られた錆びた価値や煤けた伝統が生を充填している。小説は、そのような詐術に追従するか、詐術を詐術と名指すことに汲々としている。リアリズム以外の作法が不可能だということ。溢れんばかりの空虚は、新しい空虚が生まれる余地を潰してしまっている。使い古された伝統・しきたり・スローガンが僕たちの生きる意味となって、隙間だらけの心に忍び込んで来る。無意味としか思えない白紙の切片は、どこに生まれうるのだろうか。
 白紙でなくともいい。壁でもいい。なにを書くかではなく、文字で埋めるに足るスペースが問題だ。ばかばかしいことをする前に、それを可能にする余地をつくることのほうが先だ。まずはあまりに隙だらけの「僕」に蓋をすることが肝心だろう。すぐに外圧に負けてしまう「僕」をできるだけ空っぽにしておくこと。空っぽになることがとても難しい時代だけど、きっとカミュならそうするだろう。