サイボーグ宣言

 

猿と女とサイボーグ―自然の再発明

猿と女とサイボーグ―自然の再発明

 ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』所収「サイボーグ宣言」。サイボーグは、機械と人間のハイブリッドというより、機械でも人間でもない怪物的な生体を理念とするaffinity。条件となるのはテクノサイエンス、情報文化(マノヴィッチ)。身体が情報のなかに埋め込まれ、コンピュータ化された生を生きる今、ジェンダー規範克服の夢をみることができる。女性だけの排他的な共同体ではなく、女性化され(う)るあらゆるもの(非正規雇用、人種差別など)を含むという意味において、フェミニズムの新しい展開を画する論文だったのだろう。
 興味深いのはサイボーグをモンスターの系譜に入れているくだり。フランケンシュタインの怪物が家庭や伴侶に憧れるのとは異なり、サイボーグはそのような憧れを挫くことに憧れる。またマルクス主義系統にありがちな経験の特権化を指弾している点も特徴か。「生活の基盤がなぜ所与のものとして持ち出されるのか」。つまり経験が予めジェンダー化(女性化)されていることに対して批判的眼差しを向けるということだろう。経験を特権化してしまうと、問題の当事者や経験者は「女性化」された経験の領野に留まり、被害者としてしか扱われなくなってしまう。サイボーグは経験を局在化して特権視するのではなく、それらが全体化不可能で再現不可能であることを知りつつも、他の経験とネットワーキングさせる、というアイロニカルな親密さにかかわる。生殖=再生産ではなくregeneration。filiationではなくaffinity。
 「わたしの経験」というとき、経験は所有されている。女性の財産権が保証されていなかった19世紀においては所有権の主張は武器になったが、結局それは資本主義的な私的所有・家父長制の論理(家長の所有物としての女・こども)を反復してしまう。サイボーグは、財産目録から経験を解き放つ「わたしたち」という人称。だから「わたしたち」は、時空間を越えて存在する生のすべてを含み持ちながら、同時に現実にはまだないものを生み出す潜勢力の人称。「わたしたち」を現勢的に用いると、「彼ら」との対立を煽ることになり、結果、「わたしたち」は所有の論理を蔵することになる。
 こうしてハラウェイのサイボーグは新しい政治、「わたしたち」の政治を志向していることになるわけだが、疑問なのは「わたしたち」が共有しているネットワーキングの条件からの離脱にはどのような意義があるのだろう。PCを切るとき、つながりを拒絶するときに、それでもわたしは情報文化のなかに埋め込まれているのだろうか。「わたしたち」という人称を用いないとき、わたしは旧来的な所有の政治のなかにいるのだろうか。「わたしたち」と名乗らず、わたしは政治とは別の場所でやすらうことはできないのだろうか。つまり、白紙や空白、余白はどこにあるのだろう。サイボーグの政治は、わたしには天声人語を書き写すためのブランク・ノートにしか映らない。政治の方向としてはハラウェイに同意するのだけど、わたしは潜勢力の政治=サイボーグの手前に、政治とは無関係の場所を、白紙となるものを見いだしたい。