Stay: A History of Suicide and the Philosophies Against It
- 作者: Jennifer Michael Hecht
- 出版社/メーカー: Yale University Press
- 発売日: 2013/11/12
- メディア: ハードカバー
- この商品を含むブログを見る
モラルによって自殺を食い止めることはできない、という主張には同意するし、コミュニティにおける孤立が人を自殺に追い込むという点も一面ではそうだろうと思う。ただしコミュニティ内部の連帯が妙な息苦しさを生み出して、パーソナルスペースを侵害していった結果、生じてしまう自殺もあるだろう。権利や自由、責任という近代的価値観が自殺肯定の後ろ盾ではあるが、まずはその近代的価値を侵害しない場所を確保してあげることが肝要であるように思う。殊に自殺という発想はあらゆる選択肢がなくなったもっとも不自由な窮境にのみ浮上する例外的な選択肢なので、まずは生における選択肢を増やすことが先決だと思う。自殺をすることがコミュニティに及ぼす悪影響をうんぬんしたり、自殺は個人の自由を剥奪する行為だと訴えるような、自殺を思いとどまらせるための人間主義的な呼びかけをする前に、自殺を決行するという例外的な選択肢が生じないよう通常の選択肢が複数残っている状態をどれだけ確保できるか、考える必要があるだろう。
自殺という問題はヒューマニティと深い関連がある。自殺に反対する思想のほとんどはヒューマニティに訴える。ただカミュのように、ヒューマニティが無効になるような閾での逡巡こそが、自殺の思想としては正しい姿だろう。自殺するかしないか。この選択肢が残っている限り、ヒューマニティについて、非人間的に思考する自由は担保されている。
他人が悲しむ、後追い自殺をする人が出る、というような言葉に自殺を思いとどまらせる効果がある、とはわたしは思わない。そのような理性的な発想の転換を促す言葉の内実などどうでもよく、ただ声をかけるという行為そのものが、不自由な自殺志願者の情念に中断の楔を打ち込み、その間歇にかすかな自由の余地が芽生えるのではないだろうか。
フーコーは自殺する自由を説いて、しかるべくして自殺していった。フーコーは、人間という生きものに絶望して死んでいったのだろうか。自己と自己の対話というフーコー晩年のモデルは、自己と自己とのあいだに自由の余地をつくりだす陶冶の技法ではなく、自己と自己をぶつけるたびに両者が癒着して、自由を見失う自己滅却ではなかったか。わたしのなかにある異質なものは、わたしだけと対話しているうちにわたしと変わりがないものになってしまうのではないか。わたしとわたしの対話がうまくいくのは、わたしがわたしの外にある異質なものによって呼びかけられ、それを体内化する過程を確保している場合だけだろうと思う。異質なものは消化不良を起こし、異質なものはわたしのなかに居座って独自の場所を占め、わたしと会話ができるようになる。「もうひとつのわたし」は、わたしのなかにあるものだけれども、もともとは外からやってきたものだということ。きっと今にも自殺しようとしている人の情念に介入する他なる声も、そのような「もうひとつのわたし」の現れなのだろう、とわたしは思う。