「悪い生のなかでも、よい生を過ごすことはできるのか?」(アドルノ賞授賞記念講演/ジュディス・バトラー)

 原文→http://www.egs.edu/faculty/judith-butler/articles/can-one-lead-a-good-life-in-a-bad-life/

 Judith Butler. "Can One Lead a Good life in a Bad Life?" in: Radical Philosophy. Adorno Prize Lecture, September 11, 2012. Published Nov/Dec 2012. (English).

 
 

 アドルノ賞* を賜るこうした機会に恵まれ、この場に立っている今、わたしは身に余る光栄に浴しております。今宵、わたしはみなさんにアドルノが立てた問いについて、今日のわたしたちにとってもまだまだ死んではいない問いについてお話ししたいと思います。それはわたしが幾度となく立ち返る問いであり、その問い自体繰り返し[わたしの]身に迫ってやまない、そのような問いです。その問いに答えるのは茨の道、わたしたちに迫るその問いの訴えから逃れるのもまた茨の道です。そういえば、アドルノは『ミニマ・モラリア』≪註1≫において、‘Es gibt kein richtiges Leben im falschen’(ジェフコットの翻訳では、「間違った生は正しく生きることができない」)とわたしたちに教えてくれていますね。とはいえ、この箴言にあるようなことで善悪の判断基準*1の前途に彼が絶望した、というわけではありません。事実、わたしたちにはこの問いが残されているのです。つまり、悪い生のなかでもどのようにしたらよい生を過ごせるのか?、という問いが。*2 アドルノは、人にとって、人としてよいといえる生を追求する方策がなかなか見出し難いことを強調しました。つまり、不平等、搾取、さまざまなかたちをとる[生の]間引きによって組み立てられたもっと広がりのある世界においては難しいのです。少なくともその情況こそ、わたしが彼の問いに新しいかたちを与え直す上で劈頭となることでしょう。事実、わたしが今、みなさんに向けて問いのかたちを鋳直すこのとき、わたしは自覚しています。アドルノの問いというものは、それがかたちづくられる歴史の時々に応じ、その都度新しいかたち*3をとるものだということを、です。そのため、最初から、わたしたちは問題をふたつ抱えていることになります。第一の問題は、わたしたちがそれぞれ自分自身の生をうまく生きる方法です。つまり構造的に、あるいは体系的に、よい生というものが大多数の人々のために予め他のものを締めだして成立している*4ような世界の埒内で、わたしたちはよい生を生きているところだ、と言える程度にはうまく生きる、ということですね。第二の問題は、わたしたちにとってこの問いが、現下、どのようなかたちをとっているのか、ということです。つまり、わたしたちが生きている歴史上の時間は、どのようにしてアドルノの問いそれ自体のかたちを条件づけ、それに浸透しているのでしょうか?
 話を先に進める前に、わたしはここで用いる言葉づかいを確認しておかねばなりません。そうですね、「よい生」はいかがわしい言いまわしです。「よい生」(das Richtige Leben)となりうるものについてはそれぞれ異なったそれはそれはたくさんの見解があることでしょうから。多くの人はよい生を経済的な幸福感、素封、あるいは身の安全とさえ同一視してきました。しかしご存じのように、経済的な幸福感と身の安全は、よい生を生きてはいない人たちのおかげで晴れて獲得できるものです。そしてこれが明々白々なのは、よい生を生きるんだ、と権利を主張する人々が、他の人たちの労働から利益を掠め取ったり、不平等を塹壕で囲い込んでしまうような経済システムをあてにしたりして、よい生を実現するときでしょう。だから「よい生」を[より多くの人が享受できるように]もっと広く囲って、それが不平等を前提としたり仄めかしたりしないようにしなければなりません。「よい生」が規範となる他のさまざまな価値と折り合うようにしなければなりません。わたしたちが日常使う言葉をあてにしてよい生の定義を自答するとなると混乱することになるでしょう。というのも、その[日常的な意味での]よい生という言いまわしは、価値体系どうしのあいだに軋轢を生むようなベクトルになってしまっているからです。
 要するに、いくぶん拙速にはなりますがまとめてしまいますと、一方で、「よい生」はひとつの言いまわしとしては、今では時代遅れとなったアリストテレスの抜き型に属するものだったり、モラルある振る舞いが個人主義的なさまざまなかたちをとったものと結びついていたりしています。他方では、「よい生」は商業的な言説に汚染されるあまり、善悪の判断基準、より広くとるなら倫理と社会・経済理論とのあいだの関係について考えたい人たちにとっては使いものにはならなくなってしまっています。悪い生のなかでもよい生を過ごすことは可能かどうか、アドルノが問うとき、彼はモラルある振る舞いと社会的な諸条件の関係について、いやもっと広く、善悪の判断基準と社会理論の関係について問おうとしているわけです。つまり実際のところ彼が問うているのは、権力や支配のより広範にわたる働きが、どう生きるのが最善かということに対するわたしたちの個人的な内省へといかに入り込んでいるか、もしくはいかにそれをかき乱しているか、というものでもあるのです。講義録『道徳哲学の諸問題』に彼はこう綴っています。
 「倫理的ふるまい、もしくはモラルある振る舞い・モラルに欠ける振る舞いといったものは、いつでも社会的な現象である。言い換えれば、人間相互の関係から切り離された倫理的・モラルあるふるまいについて話すことに意味などまったくないし、純粋に独力で存在している個人など空っぽの抽象だ。」≪註2≫
 こうも書いてあります。「社会的なカテゴリーは、まさに倫理学の諸カテゴリーの性質に入り込んでいる。」また同講義録集の最後のセンテンスにはこうあります。
 「今日善悪判断の基準と呼ぶことができるものはどんなものであれ、世界を生によって組織化することの問いと一緒くたになっている。[中略]こういうことさえできるかもしれない。よい生の探究は、正しい政治的立場のかたちの探究である、と。実際問題、そのような正しい政治的立場のかたちが今日達成できる範囲内にあれば、の話だが。」≪註3≫
 アドルノの言うとおりならば、こう問うことにも意味はあるでしょう。つまり、社会的な生の形態のどれが、いかに生きるのが最善か、という問いに含まれるのでしょうか? いかに生きるのが最善か、もしくはいかにしてよい生を過ごすか、と問うということは、よいことの諸理念に頼るというだけでなく、[自分が]生きているということや生そのものに基づくことであるように思われます。どういった類の生を過ごすのか問うためには、わたしは自分の生を感じなければなりません。それにわたしが過ごす[導く]可能性のあるものとして、ただわたしを導くだけではないようなものとして、わたしの生はわたしの前に立ち現れなければなりません。しかしはっきりしているのは、今ここに存在しているわたしという現に生きている有機体の諸相を余すことなく「導く」ことはできないということです*5。わたしが次のように問うよう強いられたとしても。すなわち、自分の生をどのように導くのでしょうか? 人はどのように生を導くのでしょうか? ひとつの生を構成する生のいきさつすべてが導かれるわけではないのなら? ひとつの生のうちなにがしかの相だけが、委曲を尽くし熟慮した上での指図を受けかたちを与えられ、しかしその残りの生は一切導かれず、かたちももらえないのだとしたら?


生政治:嘆くに値するもの


 そのように「どのようにわたしはよい生を過ごす[導く]べきだろうか?」という問いが善悪の判断基準を問うひとつの初歩であり、事実、おそらくはその典型となる問いであるならば、善悪の判断基準というものはその発端から、生政治*6と骨がらみであるように思われることでしょう。生政治という言葉でわたしが言いたいのは、生を生として組織する*7ような権力のことです。さらにいえば、それは統治的*8・非統治的手段を介して、住人たちに対する人的管理*9の一環として、複数の生を生の脆弱さ*10へと差別的に棄て置く*11権力のことです。またそれは、生そのものに格差のついた価値評価をするための一連の法的査定基準*12を確立する権力でもあります。自分の生を導く方法を問うことによって、わたしはすでにそのようなさまざまなかたちをした権力と駆け引きを続けています。最も個人的な善悪の判断基準の問い――わたしのものであるこの生をいかに生きるか?――は、以下のようなかたちに濃縮した生政治的問いと骨がらみになっているのです。誰の生が大事なのか? 誰の生が生として大事ではないのか? 誰の生が現に生きている生として認識されていないのか? 誰の生が死んではいない生としてただなんとなく勘定されるのか? そのような問いは、次のようなことを前提とします。すなわち、生きとし生ける人間すべてが、人権や保護に値し、自由や政治的な帰属意識をもっている主体の身分を享受していることを当然だと看做すことはできない、という前提です。裏返せば、そのような[主体の]身分は政治的手段を介して守られなければならないものであり、権利剥奪は公にされなければならないということが否定される場合、守られなければならないのです。ここまでのわたしの提案はつまり、当該の[主体の]地位が割り当てられる差別的なやり口を理解するためには、誰の生が[喪われたとしたら]嘆くに値するものであり、誰の生が嘆くに値しないものなのか、わたしたちは問わなければならない、ということです。結果、嘆くに値しないものに対する生政治的な人的管理が、この生をわたしはどのように導くのか、という問いを突き詰めるための勘所なのです。そして今、わたしたちを組み立てている当該の生の埒内*13で、つまり生きていることの諸条件の埒内で、わたしはこの生をどのようにして生きるのでしょうか。問うべきは、次のような問いに類する問いです。つまり、誰の目にもわかるどんな殺戮、どんな見棄てられにも先駆けて、誰の生がすでに生として看做されていないのでしょうか、誰の生がすでに部分的にしか生きていないと看做されているのでしょうか、誰の生がすでに死んでしまっていてこの世にはいないものと看做されているのでしょうか?
 もちろん、この問いは誰かにとって、誰にとっても、極めて差し迫ったものとなります。すでに自分自身がかけがえのない存在ではないことを悟った人ならそうでしょう。身の安全の保証や保護、価値の尊重にその人の生が値しないというような情動的・肉体的水準に署名している人ならそうでしょう。これこそ、自分の生が喪われたとしても嘆いてもらえないだろうことを理解している人ですし、また「わたしは死んでも嘆いてもらえないかもしれない」という条件法による主張が、今この瞬間、能動態となってそれなしには生きられなくなっているような人です。蓋を開けてみたら、わたしにはこの先食べ物や雨露を凌ぐ場所があるという保証がないのなら、わたしが倒れてもわたしを把握してくれる社会の繋がりも仕組みもないのなら、わたしは嘆くに値しないものに帰属することになります。だからといって、わたしを悼んで嘆いてくれる人は少しもいないだろう、とか、嘆くに値しないものには互いの喪失を嘆きあう手段がない、というようなことではありません。わたしがどこであれ死んでも嘆かれない、とかわたしの遺失が全然印象に残らない、というようなことでもありません。しかし、今述べたようなさまざまなかたちをした生の存続と抵抗は、依然として、公の影でしかない生*14の埒内には生起し[場所を占め]*15、機を捉えて[公的な水準に]噴き出しては、嘆くに値しないものたちの価値を貶めるような[権力の]体系に対し、自分たちの集合としての価値を訴えることで抗うのです。だからこそ、そうなのです、時折、嘆くに値しないものは、数ある嘆きの蜂起を公然と結集させるのです。そういうわけで、とても多くの国々では、葬式とデモとを見分けることが困難だということですね。
 ええ、少々事を大袈裟にしてしまいましたが、そうするのも理由あってのことなのです。ある人がこの先その死を嘆かれない理由、あるいはある人が死んでも嘆かれることのない人としてすでに確定されている理由、それはそのような生を維持していく支援構造がないからです。支援構造の不在が示しているのは、嘆く価値のない生の価値が貶められていること、その生には支配的な価値体系によってひとつの生として支援されたり保護されたりするほどの価値はない、ということです。わたしの生の行方といえども、そうした支援の条件次第なので、支援されなければ、わたしの生は儚く、脆弱な生として確定されていることになりますし、その意味で、わたしの生は傷病あるいは遺失から守られるには値しない生ということで、嘆く価値もないということになりますね。嘆くに値する生だけがその価値を認められ、ずっと価値を認められるのだとすれば、嘆くに値する生だけが社会的・経済的支援、つまり住まい、医療、雇用、政治的意見を表明する諸権利、さまざまなかたちをとる社会的承認、政治的行為能力(Handlungsfähigkeit)のための諸条件*16、といったものを認められるに相応しいということになるでしょう。いわば、亡くなるより前に、無視されているとか見棄てられている、といったどんな問いよりも前に、人は嘆く価値がある存在でなければならないのです。だから、自分の存在そのものであるこの生の遺失はきっと悼まれるだろうし、こうした[生の]遺失に備えて前もって対策という対策[measure]がとってもらえる、とわかっている人が一生を生きることができるに違いないのです。
 ある人の生に嘆く価値がなかったり、かけがえのないものではなかったりすることを感受した感覚の内奥から、どのように善悪の問いはかたちをとるものなのでしょうか? どのように公の場で嘆く権利の要求が生まれるものなのでしょうか? 言葉を換えれば、どのようにわたしは心からよい生を過ごそう/導こうとするのでしょうか? わたしには語るに足る生がない場合は? わたしが努めて過ごそうとする生がかけがえのないものとは看做されていない、もしくは事実上すでに見棄てられている場合は? わたしが過ごす生が生きる価値のないものであるならば、ずいぶんと身を焦がすようなパラドックスがあとに続きます。というのも、わたしはどのようによい生を過ごすのだろう、という問いは、過ごされる/導かれるべき生があることを前提とするからです。つまり問うためには、現に生き続けている生として認識される生があり、わたしのものである生はそうした生の仲間である、という前提がいるのです。それどころかその問いは、その問いを反省的に立てる力を有するようなわたしなるものが存在すること、そしてわたしはわたし自身に対して[感覚可能なものとして]現れもする、ということをも前提とするのです。ということは、わたしという存在が現象できるのは、わたしにとって感覚可能な現象の領域の埒内だということです。その問いが実現しそうなものだとすれば、それを問う者は、どんな答えが出てきてもそれを追究できなければなりません。わたしが辿ることのできるような道をその問いが切り開くのであれば、わたしの反省や行動が可能なものであるだけでなく、実効性もあることを明かしたてるよう、世界は構造化されなければなりません。いかに生きるのが最善かを熟慮する必要があるというのであれば、わたしがどこまでも追いかけようと食らいついている生が一も二もなく生として肯定できるものであること、わたしがその生をはっきり肯定できるということ、わたしはこれらを前提としなければなりません。それはたとえわたしの生が世間的に認められなくとも、さらに、わたしの生を社会的/経済的に公認するものがあるのかを労せず識別することさえ常ならぬ条件下に置かれていたとしても、です。つまるところ、わたしのものとなっているこの生は、生の価値を差別的に配当しがちな世界が、わたしへと折り返し映しだされたものだということです。つまり、この世界では、わたし自身の生が他の人の生より高く見積もられたり、低く見積もられたりするのです。言葉を換えましょう。わたしのものであるこの生が折り返しわたしに映して見せるのは、平等と権力の問題、射程を広げるなら、価値の配当の正義/不正義の問題なのです。
 というわけで、このような世界、つまりわたしたちが「悪い生」とどうしても呼ばざるを得ないような世界が、現に生きている存在としてのわたしの価値を、わたしに反映し損ねているのだとしたら、わたしは生の間引きと不平等のかたちを生産するようなカテゴリーや構造等に対して批判的にならざるをえません。つまり、わたしが自分の生をはっきりと肯定するには、生そのものを差別的に価値づけるような諸構造の批判を伴わなければならないのです。こうした批判の実践では、わたしが思考を巡らせる対象とわたし自身の生とが骨がらみとなっています。わたしの生はこの生であり、ここで生きられています。わたしの身体が確立する時-空の地平で、生きられているのです。しかし、わたしの生は彼方にもあります。わたしの生は、もうひとつのわたしの存在が別様に生きるいきさつに巻き込まれているのです。さらにいうと、わたしの生は権力の格差装置に巻き込まれています。誰の生が大事で、誰の生が些事で、あらゆる生きている存在の価値を統治するような現代の語彙の埒内では誰の生が生ならざるものなのか、そうしたことを決定する権力の格差装置です。アドルノはこう述べています。
 「われわれはしっかりしがみつく必要がある。善悪の規範に、自己-批判に、正/誤の問いに、そしてそれと併せて、当の自己-批判を引き受ける自信のある権力が間違う可能性の感知に。」≪註4≫
 この「わたし」は、この口が言うほど自分のことを知っているわけではないのかもしれませんし、本当は、この「わたし」が「わたし」自体を把握する最良の語彙は、言説の子供なのであって*17、その言説は思考に先立ち、思考を満たしているのかもしれません。わたしたちのうち誰一人としてその言説の働きや効果をしっかりと把握することはできないのだというのであれば、そうなのでしょう。そして、問われなければならない当の権力の権威がとるさまざまな様態を通じ、さまざまな価値が定義され配給されるせいで、わたしはなにかしら縛られているというわけです。わたしの生を価値あるものとするような言葉でわたしはわたし自身を立法するのでしょうか? それとも、さまざまな価値に君臨する秩序に対する批判をわたしは企てるのでしょうか?
 さあ、わたしは問わなければならないし、実際こう問うのです、わたしはどのようによい生を生きるのだろうか、そしてこうした[問う]熱意は大事なものではあります。しかしながら、わたしは自分のものであるこの生について、もっと広がりのある社会的な生でもあるこの生について、慎重に頭を使って考えなければなりません。わたしが生きている、いやそれ以上にわたしが真剣に生きようとしているこの生と価値の言説秩序に対する批判的関係にわたしが巻きこまれる、というふうに、わたしの生は他の生きている存在と繋がっている、これを考えなければなりません。いったい何が言説秩序に権威を与えているのでしょうか? その権威は合法的なものなのでしょうか? わたし自身の生はそのような問いかけの必要性に迫られているものですから、生政治的秩序の批判は、わたしにとって[それ自体が生きているわたしと同じように]現に生きている問題なのです。よい生を生きる可能性が問わなければならないものである限り、生きるためもがくこと、正当な世界の埒内に生きるためにもがくことも問わなければならないなのです。価値をもった生をわたしが生きることができるかどうか、それはわたしには勝手に決めることができません。というのも、結局、この生はわたしのものでありながらわたしのものではないのだし、この生はわたしを社会的な生きものにし、現に生きている生きものにするものだからです。というわけで、いかによい生を生きるかという問いは、すでにそのとば口から、こうした掴みどころのなさと骨がらみであり、また生きていくことの(lebendig)批判実践と骨がらみなのです。
 もしわたしがこの世界においてわたしの価値を確固たるものにする際、その場凌ぎ以下のやり方ででしかできないのであれば、わたしの可能性の感覚*18もそれと同等に儚いものとなります。よい生を導く義務、そしてその義務が生み出す反省的な問いは、時折、希望のない情況に生きる人々にとってとても残酷で軽率なものであるように見えるかもしれませんね。そうしたら、他ならぬ善悪の判断基準の実践をも時に包みこんでしまう次のような冷めた嘲りが、わたしたちにはおそらくは手に取るようにわかることでしょうね。つまり、わたしが善悪の基準を頭に入れて行動すべきなのはどうしてなんだ? ましてや、いかに生きるのが最善なのかなどと(わたしがそうすればよい生を過ごせるくらいに)問うべきなのはなぜなんだ? わたしの生がすでに生だと看做されていないのに? わたしの生がすでに死のかたちをとっているものとして扱われているのに? わたしがオーランド・パターソンがいう「社会的な死」――奴隷制下の生存情況を言い表すために彼が使用した用語――の領域に帰属しているのに?
 現在さまざまなかたちをとる経済的な見棄てと権利剥奪、これらはネオリベラルな合理性の枠組みの制度化*19、あるいは生の脆弱さの差別的な生産に由来するのですが、そういった現代的形式はほとんど奴隷制とは重ならないので、社会的な死のさまざまな様態*20をそれぞれ判別することが依然肝要なのです。おそらくわたしたちは、ひとつの単語で生が生きるに値しないものになり果てるような諸条件を描出することはできませんが、生の「脆弱さ」という用語なら、さまざまな様態をとる「生きる価値のなさ」を判別することはできます。たとえば、法は適正に手続きされないとならないという法の適用原則*21に頼れず身柄を拘束される人々。戦闘地帯や占領下に暮らしており、身の保全や避難に頼れないため暴力と殺戮に曝されている人々。移住を余儀なくされ国境地帯に暮らし、国境が開くのを、食糧が届くのを、身分証明のある生活の見通しが立つのを待望している人々。とりかえがきいたり、使い捨てできたりするような労働力の一部となっている条件をしるしづける人々。彼らは安定した暮らしを営む見通しがますます遠ざかっていくように見えるような人々であり、さらに萎んでしまった時間層の埒内にその日暮らしで生き、腹の底から骨の髄まで駄目になった未来の感覚に煩わされ、[未来として]感じられそうなものを感じてみようと試みるも結局却って[その不確かさに]恐れをなしてしまうのです。どのように生を過ごす/導くのが最善か、どのように問うことができるのでしょうか? 生を指揮する力が全く感じられないのなら。自分が死んではいないということが定かではないのなら。死んではいないという感覚を感じるべくもがいている最中で、同時に、そうした感覚を感じることを、そしてこんなふうに現に生きていることの痛みを感じることを恐れてもいるのなら。移住を余儀なくされる昨今の状況下、膨大な数に上る住人たちは今、確かな未来の感覚、持続的な政治的な帰属の感覚を持たないまま生きており、ある程度ネオリベラリズムの日常的経験であるような毀損された生の感覚を生きているのです。
 わたしが申し上げているのは、生き延びるためにもがくことが、件の善悪の判断基準、つまり善悪判断の義務の領域より優先される、いうことではありません。というのもご存じのように、極限までその身の安全を脅かされるような条件下にあってもなお、人々は可能な支援活動ならなんであれ申し出るものだからです。このことは、強制収容所からの臨時報告のどれかでご存じでしょう。たとえば、ロベール・アンテルムの著作では、共通語はないものの、カザフスタンで身柄拘束と[命の]危険という同一条件下に置かれているものたち同士でのタバコの交換がこれに相当するでしょうか。またプリモ・レーヴィの著作の場合、他者への応答が、他者の語る物語の隅々にまで単に耳を傾けたり、それを記録したりするというかたちをとることがこれに相当するでしょう。そうすることで、その物語がそれ自体否定することのできない原資料の一部に、いつまでも残り続ける遺失の痕跡になり、その痕跡は連綿と続く悼みの義務を強いるのです。シャルロット・デルボーの著作の場合なら、自分自身のために喉から手が出るほど欲しているパンの最後のひと切れを他の人になんの前触れもなく差し出すことでしょうか。とはいえ、こうした同じような体験報告の中にも、手を差し伸べることのない人もいるでしょう。自分のためにパンを手にとることになる人もいるのでしょう。たばこを蓄え、ときおり、底をついた窮乏の情況下では、他人のタバコを奪いたいという懊悩に心を煩わせることになる人もいるでしょう。要するに、身の危険と生の脆弱さが極限まで高まった情況下では、善悪判断のジレンマは避けて通れないのです。つまり、生きたいと希うこととなにかしらの方法で他者と共に生きたいと希うこと、というふたつの希いの拮抗状態にこそ善悪判断のジレンマはつきまとうのです。か細くとも命脈を保ってまだ「生を導いている/過ごしている」人がいます。物語を語ったり、聞いたりして。他の人の生や苦しみを認識する機会があればどんなものであろうとそれを強く肯定して。名前を口にする程度のことが、これ以上ないほど例外的な認識のかたちとなることさえあるでしょう。名前のない状態に陥っていたり、名前が番号に置き換えられていたりする場合、あるいは話しかけられることが全くない場合などそうでしょう。
 ハンナ・アレントは、生きる欲望と、よく生きようという欲望、いや、というより、よい生を生きる欲望ですね、このふたつの欲望は決定的に違うものである、と主張しました。≪註5≫ アレントにとって、生存はそれ自体目標ではなかったし、目標とすべきものではないのです。というのも、生そのものは本質的な善ではなかったからです。よい生だけが生を生きていくに値するものにするというわけです。さっき申し上げたようなソクラテス的ジレンマをこうして彼女はあっさり解決しましたが、おそらくそれはあまりに拙速だった、いやわたしにはそう見えるのです。彼女の出した解答がわたしたちの役に立つとはわたしには確信できませんし、これまでは彼女の解答が大いに役立った、というのもどうも納得がいきませんね。アレントには、身体の生の大部分を心の生から切り離す必要がありました。だから『人間の条件』で、彼女は公的領域と私的領域とのあいだにはっきりと線引きを施しているのです。私的領域には欲求、物質的なレベルでの生の再生産、セクシュアリティ、生、死、儚さの場所があります。彼女はこの私的領域が活動*22や思考の公的な領域を支えていることをはっきり理解していましたが、彼女の見解では、政治的なもの*23は、活動によって[私的なものから]区別されなければならないものでした。発話が活動する上で意義を持つように、ですね。だから、言葉のふるまいは、熟議による公的な政治空間の活動となるというわけです。[しかし、]公的な領域に入った人は私的領域から出てそこに入ったのであり、よって、公的な領域は、私的なものと、私から公へ至る一本道の通路との再生産に根本的には依存していたのです。ギリシャ語を話せなかった人、他所もの、話し言葉がわかりにくかった人などは野蛮人だと看做されていました。ということは、公的な領域は、多言語主義の空間としては構想されていなかったということですし、その上、公共の義務としての翻訳の実践を包含し損ねていたことになります。しかし、効果的な言葉による活動は、次のふたつのものを土台にしていたことはわかりますよね。第一に男らしい話し手と活動従事者を再生産するような安定し、かつ外界から切り離された私的領域があります。第二に言葉による活動に特化した言語、すなわち聞こえ理解できるように政治的立場の区別をはっきりさせる特性がありますね。というのも[ポリスの]言語は、単一言語主義の求めにゴマをすりかたちをその通り一致させたのですから。公的な領域の特徴となっていたのは、わかりやすい、意図どおりの効果を生む言語行為一式であり、したがってそこには、認知されることのない労働(女性と奴隷)と多言語主義の諸問題が延々と影さしていたのでした。さらに労働と多言語主義の問題を集約する場こそ、まさしく奴隷の境遇でした。奴隷は取り換えが利き、その政治的地位は無いも同然で、その言語は全く言語だとは認められなかったのです。もちろん、アレントは理解していたのです。身体はどんな活動の概念生成にとっても重要だということ、それから抵抗あるいは革命で戦う人たちであっても、自分たちの権利を主張し、なにかしら新しいものを創り出すために身体的活動を一から企てなければならなかった、ということを。≪註6≫また身体は、公的な発言にとって明らかに重要なものだったし、[彼女は]それを言葉による活動のひとつのかたちとして理解していました。身体は、彼女にとって大事な出生率の概念生成*24においても再び中心的な形象として出てきます。出生率の概念生成は、彼女の美学と政治双方の概念生成と結びついているのです。しかしながら、彼女の[哲学]体系は、ある種「命を産み出す」ものとして理解される活動が、革命に携わる活動とまったく同一の活動ではないということを仄めかしてはいますが、しかしそれでもふたつの活動は、別々の経路を辿りはするものの、共に前例のない何か新しいものを生み出す手段であるという事実によって密な関係にあることを匂わせています。政治的な抵抗の行為に、あるいはまさしく命を産み出す行為に苦しみがあるとすれば、それはなにか新しいものを世界にもたらす目的に適うような産みの苦しみなのです。とはいえ、そんな産みの苦しみからわたしたちは何を作りだすというのでしょうか? その産みの苦しみは、遅かれ早かれ労働者の身体を使いものにならなくするような労働形態の子供であり、そうでなければ、馬が食べるために走る鼻面にぶらさがった人参*25には一切ならない、また他の形態の子供だというのに。言葉と身体両面にとっての活動の足場として政治を厳密に定義するのであれば、またはっきりと境界線を引かれた公的領域の埒内で生起する政治を定義するのであれば、それならばわたしたちに残されているのは「使いものにならない産みの苦しみ」や気づかれない労働を、そのような政治的なものの外に存在するような、政治の先触れとなる[活動ではなく]経験、と呼ぶことであるように思われます。しかしとりあえずは、権力のどんな働きが政治的なものと政治の先触れとなるものとを仕分けするのか、公的なものと私的なものとの区分がどのように人それぞれ異なる生の過程に対して格差のついた価値を授けるのか、政治的なもののどんな概念生成であれ、こうした問いを勘定に入れなければならないですね。そのため、アレントがしたような定義=区分が、わたしたちにとって大いに有益だとしても、わたしたちはこれを拒否しなければなりませんね。いやむしろ、アレントのした区分、身体の生と心の生の区分を、それとは別様の身体政治学を頭で考えるための出発点として受け取らなければなりません。結局アレントは、デカルト的な意味あいで心と身体とを単純に分けたわけではないのですから。というよりむしろ彼女は、なにか新しいものを生みだしたり、行為遂行的な効果を伴う活動を企てたりするような、そんな身体を備えた*26思考や活動の諸形式だけを肯定したのですから。
 行為遂行的な活動は、小手先だけの実践応用論に帰すことはできないものですし、受動的でその場かぎりで終わってしまうようなかたちをした経験とは違います。このように、苦しみ、もしくは儚さが存在する時や場所でこそ、そうしたものは活動と思考の生へとそのかたちを変えられることになるです。そのような場合の活動や思考は、言語行為論でいう行為遂行的なものでなければ、そして美的判断力を範にとった、世界に何か新しいものを産み出すようなものでなければなりません。ということは、生存の諸問題、物質的諸条件の再生産、生きる上で基本的な欲求の満足といった問題としか係わらない身体では、まだ「政治的な」身体ではない、ということになりますよね。私的なものが必要です。なぜなら、政治的な身体が公的な空間の明るみにようやく現れ出ることができるのは、その身体が満足に食べ満足に雨露を凌げているかどうか、を活動に移し*27考えるためだからです。政治的な身体は、その活動が政治的ではないような、政治の先触れとなるたくさんの行為者によって支えられているのです。私的な領域が支えとして働いていることを前提できない政治的行為者などいないのであれば、公的なものとして定義される政治的なものは実質、私的なものに拠っている、ということになりますよね。ということはつまり、私的なものは政治的なものの対立項ではなく、まさにその政治的なものの定義に入ることになるのです。今ここにいるちゃんと食べている身体は、あけっぴろげにそして公に向かって喋ります。同様に、夜を雨露凌げる場所で過ごし、他の人たちと私的なつきあいをしている身体は常にいつでも、そのうち表に現れ、公的に活動します。そんな私的な領域は、他ならぬ公的な活動の背景となるのです。しかし待って下さい、私的領域はそういう理由で政治の先触れとしての役割を割り振られるべきなのでしょうか? たとえば、平等、尊厳、非-暴力といったものの関係が、女性、子供、年長者、奴隷の住まうような見えにくい背景にも[公的な領域と同様]あるのかどうか、というのは問題ではないでしょうか? ある不平等の領域が、別の平等の領域を正当化し持ち上げるために否認されているというのであれば、まさにその矛盾と矛盾を下支えしてしまう否認の働きを名づけ、明るみに出すことができるような政治的立場を、わたしたちは必ずや必要とします。もし、アレントが提起した公私のあいだの境界画定を受け入れれば、そうした否認を追認する危険を冒すことになるのです。
 ではここで、古代ギリシャのポリスの公私の区別というアレントの話を蒸し返すことによって、何が議論の焦点となるのでしょう? [アレントの場合、]依存を否認することが、政治的な主体を自律的に思考し活動に移す上での前提条件となるのですが、これはどのような類の「自律的な」思考や活動なのだろう、という問いを即座に提起するものですね。そしてもしアレントの示した公私の区別に同意するなら、わたしたちは件の否認のメカニズムをわたしたち自身の批判的分析の対象としては看做すというより、そうした依存の否認をいっそ政治学の前提条件として受け容れることになるのです。いいえ実際は、まさにそのようなまだ公認されていない依存を批判することこそが、新しい身体政治学の出発点を打ち立てるのです。その身体政治学は、人間の依存と相互依存の理解から始まるのです。つまり、新しい身体政治学は、生の脆弱さと行為遂行性*28の関係を説明する[account for]ことができるということです。
 では、依存の否認をお膳立てするような依存の条件と規範から始めてみてはどうでしょう。そのような[新しい身体政治学の]出発点は政治学の理念、さらには政治的なものの埒内にある行為遂行性の役割となにが違うというのでしょうか? 行為遂行的な発話の行為や活動の次元を身体的生の次元から切り離すことなどできるものなのでしょうか? 身体的生には、依存や生来の傷つきやすさがあるし、明快な活動へと容易には、もしくは十全にはかたちを変えることなどありえないような生きている身体の諸相が含まれているというのに? わたしたちは口から発する言葉が動物としての人間から人間的なものを剔抉する、というような理念を手離す必要があるだけではありません。わたしたちはみなさん御存じの発話の特質、つまり意識的かつ意図的な意思の志向性を必ず反映はしない発話の特質を肯定する必要があるのかもしれません。実際、ヴィトゲンシュタインが述べているように、わたしたちは話し、言葉を発したすぐあとに、言葉が生きているような感覚を得ることが時折あります。わたしの言葉はわたしの意図から始まるわけではありません。確かに意図と呼べるような何かが、わたしたちが話すときには、はっきりとかたちを得るわけですけどもね。さらにいえば、動物としての人間の行為遂行性が出来するのは、身ぶり、足どりなどさまざまな動くことを通じて、音やイメージを通じて、つまり、公的なかたちをとる口語による発話には還元できないさまざまな表現手段を通じて、なのです。[アレントの言っていたような]共和主義的理想はそのうち、五感で感じられる民主制をより意味の広がりのあるものとして頭で理解することに道を譲ることになるでしょう。街路にわたしたちが集まる方法、歌ったり、シュプレヒコールを挙げたり、逆に黙り続けたりといったことが、政治の行為遂行的特質の一部となるかもしれません。つまり、多岐にわたる身体的活動のうちのひとつとして言葉を位置づけるということです。だから身体は人が言葉を発する時、活動する、ということになるわけですよね。とはいえ、話すことは身体が活動する唯一の方法ではありませんし、実際身体が政治的に活動する唯一の方法ではありません。さらに公的なデモあるいは政治的な活動といったものが、先細りしそうな支援のかたち――食糧や雨露を凌ぐ場所の不足、信頼できない、もしくは報われない労働――を標的として対抗するのであれば、それなら政治学の「背景」として以前は理解されていたものが、政治のはっきりした標的となります。[生政治的秩序によって]誘発された生の脆弱さの情況に抗い人々が結集するとき、みんなは行為遂行的に活動しています。そうした人々こそ、協調した活動というアレントの理念に、具体的な[身体化した]かたちを与えます。しかしそのような契機に政治行動の行為遂行性が現れるのは、生の脆弱さの情況から、その生の脆弱さに政治的に対抗して、のことなのです。[地球の]住民たちが経済的/政治的政策から見棄てられるときには、彼らの生は支援するに値しないものと看做されています。そのような政策に対して向かい合う現代の行為遂行性の政治学は、生きている生物相互の依存を声高に訴え、また同様に倫理的かつ政治的義務を、ある地域の住人から生きる価値のある生を奪う、もしくは奪おうとするあらゆる政策が結果として負うことになる義務を訴えるのです。こうした行為遂行的なものは同時に、そのような住民たちの価値を貶めんと脅かす生政治的な体系の只中で、価値を表明し、内側に法を宿す*29方途でもあるのです。
 もちろん、この議論をしていると、わたしたちは次のようなまた別の問いに辿りつきます。つまり、わたしたちが話しているのは、人間の身体についてだけなのでしょうか? また、わたしたちが依って立つ、社会的相互依存が織りなす環境、機械、そして複雑なシステムを抜きにして、本当にわたしたちは身体について話すことができるのでしょうか? それらは一体となって人間の身体の存在と生存の諸条件をかたちにするものなのではないでしょうか? 止めに、たとえわたしたちが身体のさまざまな必要条件を理解し、ひとつひとつ数え上げるようにするのだとしても、わたしたちは必要条件を満たすためだけに粉骨砕身するものなのでしょうか? 確認しておきますが、アレントははっきりと[依存しない身体]という見解に反対していましたよね。そうした見方に与するのであれば、わたしたちは躓かずに生きていく身体のためにも、そして生きるに値する生になるべき生のためにも粉骨砕身するものでしょうか? もう察していただけているとは思いますが、わたしたちがよい生、生きるに値する生のために粉骨砕身するには、身体を生き永らえさせるだけの必要条件を満たさなければならないのです。身体がそれ自体生き延びるために必要とするものを備えるよう強くその権利を求めるのは必須です。というのも、生存はわたしたちが為す他の主張すべてにとって、まさしく前提条件だからです。とはいえ、そんな権利要求ではまだ不十分だというのは明らかです。なぜなら、わたしたちは寸分の違いなく生きるために生き延びるからであり、生が生存を必須とする限りにおいて、生きるに値するものでいるための生存に対し、生の方が優先でなければならないからです。≪註7≫人が生き延びるには、自分の生を生きることができる状態になくてはなりません。場合によっては、大変な条件のもとでは、人の生が生き延びる価値のある生とは思われないことも確かにあるのです。だから、すべての人々の権利を抱懐する権利の要求は、まさしく生きるに値する生を、すなわち生きられる可能性のある生を手に入れるためのものでなければならないのです。
 それならばわたしたちは、そうした生のための単一の理想、あるいは理想に共通するかたちを措定することなく、生きるに値する生についてどのように思考すればよいのでしょうか? わたしの見立てでは、人間的なものの本質、あるいはそのありうべき理想を暴きたてることが問題なのではありません。というのも、とっくに明らかなことなのですが、人間は動物でもあるし、それから他ならぬ人間の身体的存在が、人間・非人間どちらのものでもある支援システムに依って立っているからです。では、ある程度まではわたしはダナ・ハラウェイになりきることにして、会場のみなさんにもお願いしますが、身体的生を構成する複合的な文法関係*30について思考し、またいかなるものであっても人間的なものの理想的なかたちなどわたしたちには必要ない、ということを提案してみようじゃありませんか。いやむしろ、それなしではわたしたちはまったく存在できない、そうした複合的な一連の関係を理解し、そこに参加する必要があるのです。≪註8≫
 もちろん、数々の条件節*31がまずあって、それらの許で、わたしが今言及しているような類の依存や文法関係は耐えがたいと思われるのです。ある労働者がその人を搾取するようなオーナーに依存している場合、そのときその労働者の依存には、その人が搾取に耐えうる許容量と同じ価値があるように見えます。すると、依存がとる社会のかたちは搾取だから、あらゆる依存を根絶する必要がある、という解決になりそうですね。しかし、搾取労働の利害が絡む関係の事情があってたまたま依存がとることになったかたちを、変更不可能、もしくは必然的な依存の意味とを結びつけて考えてしまうのは躓きの石となるでしょう。たとえ依存があれこれ社会的なかたちを絶えずとるものだとしても、依存はそうしたさまざまなかたちのあいだでかわるがわる乗り移ることができるし、実際乗り移るわけですが、ということは、実際依存はそのようなかたちのどれにも還元できない得体のしれないもののままなのです。それどころか、わたしがもっと強調したい要点はシンプルなもので、つまり、人間が生き延びる、もしくは生き続けるには、下支えする環境、文法関係の社会的なかたち、そして相互依存を前提とし構造化する経済的なかたちに頼らなければならない、ということです。依存は生来の傷つきやすさを伴うものであり、だから、生来の傷つきやすさというのはちょうど、わたしたちの経験を脅かしたり、矮小化したりするような権力のかたちに対しての傷つきやすさのことだということもある、というのは、本当です。とはいえ、依存を、あるいはこういってよければ、社会的なかたちに対する傷つきやすさの条件節を法で禁じることができる、ということにはなりません。そうです、自分たちの生きようという欲望を搾取したり操ったりするような権力のかたちにもしわたしたちが傷つくことがないのであれば、わたしたちは悪い生のなかでもよい生を生きることがそんなにも難しい理由を理解する端緒につくことはできないでしょう。わたしたちが生きようと欲望し、うまく生きようとさえ欲望するのは、社会的に生を生として組織する仕組みの埒内に、生政治の体系の埒内にいるからです。そうした組織・体制は時に、他ならぬわたしたちの生を使い捨てできるもの、見逃してもよいものとして揺るぎないものにし、もっとひどければわたしたちの生を否定しようとやっきになるようなものではありますが。わたしたちが生き続けるためには、社会的な生のかたちがなければならないのであり、そのため、手の届く社会的な生のかたちが、わたしたちの生命活動の先行きに悪影響を及ぼすものであるなら、わたしたちは、どうにもならない枷ではないとしても、厄介な枷を嵌められていることになります。
 さらにパラフレーズしましょう。身体としてのわたしたちは、他者や社会制度に対して傷つきやすく、またこの傷つきやすさは、身体の存続を媒介する社会様式の一側面を構成しています。争点となっているわたしの、もしくはみなさんの傷つきやすさは、もっと射程範囲の広い平等・不平等の政治的問題にわたしたちを巻き込んでいるのです。というのも、社会的不平等のさまざまなかたちを生産し、それらを自然なものとして仕立て上げる顛末にあって、傷つきやすさは[悪い生を]投影され否認される(精神分析の諸カテゴリー)ものであるというだけでなく、搾取され改竄される(社会・経済の諸カテゴリー)ものでもあるからです。これこそ、傷つきやすさの不平等な配分の内実なのです。しかしながら、規範にかかわるわたしの目的は、傷つきやすさを平等に配分することを要求することだけには留まりません。なぜなら、平等な分配は、分配されていく傷つきやすさの社会的なかたちがそれ自体生きるに値するかたちであるかどうかに、相当程度、依存しているからです。つまりこういうことです。人は、あらゆる人が平等に生きるに値しない生を持って欲しくはないものですよね。平等が不可欠な目標である限り、平等というだけでは不十分なままなのです。配分される傷つきやすさの社会的なかたちが正当かどうかをどのように評価するのが最善かわたしたちにはわからないうちは、そういうことになりますね。かたや、わたしが論じているのは、依存の否認、とりわけ依存が出来させる傷つきやすさの社会的なかたちが、依存する人々と依存しない人々との区別を打ち立てるべく働く、ということです。さらにこの[依存/非依存の]区別は不平等のために働くものであり、つまりは父権的なおもいやり*32のかたちを強化したり、依存を求めている人々を本質主義的な用語*33に押し込めたりするのです。他方、わたしが提案しているのは、身体的な依存、生の脆弱さの諸条件節、そして行為遂行性の潜在可能性を肯定するような相互依存の概念生成を経由しなければ、わたしたちは生きるに値する生の名の許に、生の脆弱さを克服しようと追い求めるような社会的・政治的世界を思考することはできない、ということです。

抵抗

 わたしの考えでは、生来の傷つきやすさが、身体の政治的な様態の一側面を構成します。そこでは、身体は確かに人間らしいものではありますが、人間らしい動物として理解されるのです。つまり、人間お互いにとっての傷つきやすさは、互酬的なものとして概念生成される場合でも、わたしたちの社会的諸関係の契約*34に先立つ次元をしるしているのです。これはつまり、ある水準では傷つきやすさは、先ほど申し上げた道具主義的な論理に対して抗うものだ、ということでもあります。つまり、わたしがあなたの傷つきやすさを守るのは、あなたがわたしの傷つきやすさを守る場合だけ*35、と主張するような道具主義的な論理ですね(そのような論理のなかでは、政治学は契約を仲介したり、偶然を計算したりするような問題になってしまいます)。それどころか、傷つきやすさは社会性や政治的生の諸条件[節]のうちのひとつを成しています。それは契約では保証できないものなので、傷つきやすさを否認したり改竄したりできるということが、相互依存的な政治の社会的条件[節]を破壊したり、人的管理したりしようとする労力を成すことになるのです。ジェイ・バーンスタインがはっきりさせたように、傷つきやすさが害を被りやすいこと(injurability)とばかり結びつくことなどありえません。出来事に対して受動的であることの一切は、いずれにしても傷つきやすさの機能であり効果なのですから。たとえば、[傷つきやすさの]受動性は未だ語られていないような歴史を記録する行為に開かれているということ[openness]だったり、たとえこの世にはいない身体だったとしても、そうした自分以外の身体が行うこと、あるいは行ってきたことを受け容れること[receptivity]だったりするのです。わたしたちに言うことができるのは、こうしたことが時代を跨いだ感情移入にまつわる問題群だということでしょうが、わたしが提案したいのは、(スピノザ読解に由来するドゥルーズの言いまわしを拝借すれば)≪註9≫身体が為すことには、別の身体、あるいは群れを成した他者の身体に対して開かれているということが含まれている、ということでして、だからこそ、諸身体は、どれも自閉してしているような統一体ではない、ということです。どの身体も、ある意味では、必ずそれら自体の外部に位置しており、それらを取り巻く環境を探索したり、移動したり、また外へと広がって、時には五感によってその権利を奪われることさえあるのが身体というものなのです。もしもわたしたちが別の身体のなかに見失われてしまうようなものなら、つまり、もしもわたしたちの触覚の、主体的な、視触覚の、視覚の、嗅覚の、聴覚の能力のせいでわたしたちがその身体の領分を越えて振舞うのであれば、それは身体というものが自分の持ち場にはいないからであり、またこの種の権利剥奪[忘我]が、より一般的には身体感覚を特徴づけるものだからです。社会性に[身体が]権利を奪われている状態が、生きること、生き続けることがどういうものなのかを構成する一機能だと看做されるのであれば、そのような身体のありかたは政治学そのものの理念に対してどんな違いを生みだすのでしょうか?
 ではもともとの問いかけ、つまりわたしは悪い生のなかでよい生を過ごす[導く]にはどうしたらよいか、という問いにもどると、[今なら]わたしたちは、社会的・政治的条件[節]の観点から、この善悪判断の問いを、その重要性を絶つことなく、再考することができます。もしかしたら、よい生を生きる方法についての問いは、生を導く力を手にすることに依っていますが、同様に、生を手にしている、生を自ら生きているという感覚、あるいは実は死んではいないという感覚を手にすることにも依っています。冷やかな嘲笑的反応が返ってくる可能性は常にありますよね。要点は、まさしく善悪の判断基準とその個人主義を忘却した上で社会的正義のために献身することにある、という基準に従えばそうなるでしょうね。この道を突き進むというなら、わたしたちの結論はこうなるかもしれませんね。善悪の判断基準はその場を最大限の意味での政治学に譲り渡す。つまり、善悪の判断基準は、正義と平等の理想を両方とも普遍化できるような方法で実現するプロジェクトになる、ということです。もちろん、このような結論に到達する上で、いまだに頑固につきまとう問題があります。つまり、この「わたし」*36こそが、わたしを越えてしまう広がりをもった社会的・政治的運動*37の埒内での実践に加わり、それと交渉し、責任を負わなければならない存在になる、という問題です。そのような運動がこの「わたし」やわたし自身の「生」の問題を[社会的なほうへ]ずらしたり、根絶やしにするものである限りにおいて、別のかたちをした生の間引きが、つまり[社会的に]共有された規範への吸収合併が出来します。すると、この生きている「わたし」の殺戮が出来してしまうことになりますよね。[しかし]それは、この生をどのように生きるのが最善かという問い、よい生を導く方法の問いが、この「わたし」やその「生」の間引き、もしくは殺戮へと結局は達してしまう、ということでは断じてありません。もしそういうことになるなら、件の問いに答える方法は、問いそのものの息の根を止めることになってしまいます。またわたしは、社会的・経済的生の脈絡の外に、つまりは生の主体として、あるいは現に生きている主体として誰が勘定されるかについて、なにかしらの前提の埒外に善悪の判断基準の問いを立てることができるとは思いませんが、それでもどのように生きるのが最善かという問いに対する答えは、それが生の主体を殺してしまうようでは絶対に正義に悖る、と強く確信しています。
 とはいえ、悪い生のなかでよい生を生きる可能性はない、という主張に立ち返ると、「生」という用語が二回出て来ていることがおわかりになるでしょうが、これは単なる偶然ではないのです。よい生を導く方法を問う場合、わたしなら以前の自分が生を導いている人間だったかどうかにかかわらず、きっとよい生であるだろう、そんな生に今は頼るよう努めますね。とはいえ、今のわたしは知ることを必要としているわけなので、ある意味、知ろうとすることは、わたしの生なのです。どういうことかというと、善悪の判断基準の遠近法の埒内から、すでにして生そのものが二重化されている*38ということです。その命題の二番目の部分[社会的な生]に辿りつくまで、つまり、悪しき生にあってよい生を生きる方法を知るべく努めるうちは、わたしの前には社会的・経済的に生として組織された生の理念が立ちはだかっています。その社会的・経済的な生の組織化は「悪い」ものです。というのも、まさしくその組織化が生きるに値する生の条件[節]をもたらさないからであり、生の価値は不平等に分配されるものだからです。悪い生の只中でも、人はよき生を生きることを単に望むでしょうね。可能なかぎり最善の自分らしい生き方を見つけ、生の独特な組織化を通じて生産される、自分よりも広範にわたる社会的・経済的不平等など無視することでしょう。しかし、物事はそう単純ではありません。結局、わたしが現に生きている生は、明らかにこの生であり、なにか他の生ではないというのに、この生よりも大きな生のネットワークにすでに繋がっているのです。わたしが実際には生きることのできないようなネットワーク*39に繋がれていないのであればいいのですが、ね。だから、わたし自身の生はわたしのものではない生に、それもただの他者*40の生ではなく、もっと広がりのある社会的・経済的な生の組織化に依存しているのです。だからわたし自身が現に生きていること、わたしが生き延びることは、こうしたわたしを越えて広がる生を感覚することに依っているのです。その広がりある生には、社会的に組織された生*41、現に生きており生を下支えしている環境、相互依存性を公認し支える社会的ネットワークが含まれます。そうしたさまざまな広い生がわたしの存在を構成しており、だからこそわたしは生きるために、ともかく人間として存在するために、わたしのものとして他からははっきり区別された人間的な生を、いくらか[広い生に]譲り渡すのです。
 悪い生のなかでどのようによい生を生きたらよいか、という問いに潜んでいるのは、わたしたちはよい生とはどういうものなのかについてまだまだ思考しているのかもしれない、という理念、それから、もっぱら個人的なものに属するよい生についての言葉では、もはやわたしたちにはその問いを思考することができない、という理念です。そのように二種類の生――わたしの生、そして社会的なかたちをとる生として了解されるよい生――があるのだとすれば、片方の生はもう片方の生に巻き込まれていることになります。ということは、わたしたちがいろいろな社会的な生について話すときには、いかにして社会的なものが個人的なものを横切っているかについて言及していることになるでしょうし、あるいは個人性の社会的なかたちを立ち上げていることにすらなるでしょう。と同時に、どれだけ強度に自己言及的なものであろうと、個人的なものが自己に言及するのはいつでも、なんらかの媒介するかたちを通じて、なんらかの媒質を通じてのことなのです。そのように、自己そのものを認識するための個人的な言語であっても、[自己ではない]他のどこかからやってくるものなのです。社会的なものは、わたしが企てるこうしたわたしの自己認識を条件づけ*42、媒介します。ヘーゲルから学んだように、「わたし」の自己を、その自己に特有の生を認識するようになる「わたし」はいつも、自分とはまた別の生としても自己そのものを認識します。「わたし」と「あなた」のちがいがあやふやなのは、それらがそれぞれ[言語とは]別の相互依存のシステム、ヘーゲルがSittlichkeit[倫理的な生]と呼ぶものと骨がらみだからなのです。ということは、そうした自己認識を遂行するのはこのわたしであるにもかかわらず、わたしが[言語的]権利をもつ認識が遂行されるあいだにも、社会規範の幾束かは、[言語上の「わたし」によって]作り出されている*43ということになります。しかも、作り出されているものがなんであれ、それなしにはわたしというものが考えられないにもかかわらず、それらはわたしに起源をもつものではないのです。
 アドルノの『道徳哲学の諸問題』では、悪い生にあって件のよい生を追い求める方法についての善悪判断の問いとして始まったものが、件のよい生を追い求めるためには悪い生に対する抵抗が存在しなければならない、という主張に行きつきます。彼はこう書いています。
 「生そのものは歪に捻じ曲げられているため、誰も生のなかでよい生を生きることはできない、つまり、誰も一己の人間存在としての宿命を貫徹することはできない。実際、わたしはこのように言ってしまってもよいとさえ思うのだが、つまり、世界が組織されるさまを思えば、完璧や体面を求める極めて素朴な権利要求さえ、必ずやほとんどすべての人が抗議する結果にならざるをえない。」≪註10≫
 おもしろいもので、そのような瞬間にこそ、アドルノは、結局言ってしまうことを、(さっさと)言ってしまってもよいとさえ思う、と主張するものなのでしょう。そのような枠取りがまったく正しい、という確信は彼にはないのですが、彼はともかくも先へ進んだのです。彼は自らの逡巡を反故にするものの、少なくとも当該の頁の上では逡巡したままです。善悪の判断に適うような生の追究が現代の条件[節]下で抗議にまで達することがあり得て、その上そこに達しなければならない、などとそんなに端的に言うことができるでしょうか? 抵抗が抗議になれるものでしょうか? あるいはもっと踏み込んで、アドルノにとっての抗議は、今日よい生の追求がとる社会的なかたちなのでしょうか? 同様の推論的な論調は、彼がこう述べるときも続きます。
 「おそらく唯一言えるだろうこと、それは、よい生は今日、いろいろなかたちをした悪い[falsches]生に抵抗することにその本質があるのだろうということ、そしてそうした悪い生の諸形式をこれまで理解し、批判的に分析してきたのは、もっとも先進的な精神たちだった、ということだ。」≪註11≫
 ドイツ語でアドルノは「偽の」生に言及し、これをリヴィングストンは「悪い生」と英訳しているのですが、もちろん言語の違いはとても重要です。というのも善悪の判断基準にとって、よい生の追究はおそらくは真実の生のことでしょうが、よい生と真実の生の関係についてはこれから説明されなければならないからです。さらに、おそらくアドルノは、自分が先端を走っていて、追究されなければならない批評活動の指揮棒を握るに相応の力をもった人々から成る選民集団の一員であると自任しているように思われます。特筆すべきことに、この引用文においてそうした批評実践が「抵抗」と同義のものとして看做されています。とはいえ、上述の引用のような声高な主張を彼が続けざまにする際、幾許かの疑念は拭えません。抗議と抵抗はどちらともが民衆の闘争、集団的な活動を特徴づけるものですが、しかしこの引用では、そのどちらともが少数精鋭の批判能力を特徴づけているのです。アドルノ自身、ここで微かに揺れてはいます。なおも続けて推論的な陳述を明確なものにしようとしているとはいえ、彼は一風変わった感じで反省を要求しています。
 「わたしが言っている、世界がわたしたちを素材にして作ってきたものへの抵抗は、わたしたちにはそれに抵抗する資格が十分にあると前提した上で、外部世界に対し、ただたんに対抗すればいいなどということを言わんとしているわけではまったくない。[中略] かてて加えて、わたしたちは、対抗に加わりたいという誘惑に駆られている、わたしたちのうちのいくらかの勢力に抵抗するために、わたしたち自身が有する抵抗のエネルギーをも動員すべきなのだ。」≪註12≫
 アドルノがそのような場合に除外しようと言っていると思しきものは、民衆の抵抗の理念であり、すなわち、塊となった数々の身体として街路沿いにはっきりとかたちをとって、現代的な権力の諸体制に対して対抗の姿勢を新しく編み繋ぐ*44ような批判の理念のさまざまなかたちです。それだけではなく、抵抗は現状の体制に従いたい(mitzuspielen)自己の一部分に対して「何も言わないこと」として理解されるものでもあるのです。[アドルノによれば]抵抗の理念にはふたつあります。ひとつは選ばれた少数精鋭だけが企てることのできる批判の形式であり、もうひとつは、間違ったものに加わろうと希求する自己の一部に対する抵抗、つまり権力との共犯関係を自己の内側で妨害することです。こうした要求は、わたし自身が最後には受け入れることができないようなやり方で、抵抗の理念を限定してしまいます。わたしにとって、ふたつの抵抗の理念の求めは、次のようなさらなる問いを触発するものです。自己のどの部分が拒絶されているのでしょうか? 自己のどの部分が抵抗を通じて権限を得ているのでしょうか? わたしが悪い生と共犯関係を結んでいる自己の部分を拒絶すれば、そのときにはわたしは自分の自己を純粋なものにしたことになるのでしょうか? [そのとき]わたしは、自己に掣肘を加え参加しないようにさせたというのに、当の社会的世界の構造に介入し、変革したことになるというのでしょうか? さもなくば、わたしは自己を孤立させたことになるのでしょうか? わたしは他の人々と一緒に、抵抗運動や社会のかたちを変容させるための闘争に参加したことになるのでしょうか?
 もちろん、こうした問いはしばらくのあいだ、アドルノの意見に関して立てられてきたものです。わたしは1979年ハイデルベルグのデモを覚えています。当時、左翼のグループのいくつかがアドルノに異議を唱えていました。彼の窮屈な抗議の理念に抗議していたのです! わたしにとって、いやおそらく今日のわたしたちにとって今でも問いとして残るのは、ある生き方[悪い生]をただ拒むこと以上のことをするには、どんな抵抗でなければならないのか、ということでしょう。つまり、[社会との]連帯[責任]を犠牲にして、最終的には[具体的な]政治的なものから善悪の基準を抽象化し、それから抵抗の理想形として、とても頭のよい、善の塊のような批評家を生産する、そんな[アドルノのような]立場では為しえない抵抗。抵抗がその闘争の目的となる民主主義の原理を複数、それ自体の裡に法として宿す*45ことになるなら、抵抗も複数なければならず、また具体化[身体化]されなければなりません。抵抗はまた、公共の場で嘆く価値のないものの結集を伴うことでしょう。抵抗は、嘆く価値のないものの存在と彼らの生きるに値する生の権利の要求、かいつまむと、死より前に生を生きる権利の要求をしるしづけるのです。実際問題、抵抗が新しい生き方を、生の脆弱さを差別的に分配することに盾つく、今よりもっと生きるに値する生を生みだすことになるのならば、抵抗活動は一方の生き方[脆弱な生]に否と言い、同時に別の生き方に諾と言うことになるでしょう。この目的に適うよう、わたしたちはアレントのいうような意味での協調した活動[the concerted action]が生み出す行為遂行的な結果を、わたしたちの時代のために再考しなければなりません。
 しかしです、管見では、抵抗を特徴づける協調した活動は、言葉による言語行為に見出されることもあれば、勇敢な戦闘に見られることもあるのですが、それは、拒否、黙秘、運動、運動することの拒否といった身体的身ぶりにも見いだせるのです。そのような身ぶりでも抵抗運動の特色となるのです。そうした運動が民主的な平等の原理や経済的な相互依存性の原理を、それ自体の裡に立法する[enact]のです。つまり、立法は、今より根源から民主的な、そして今より実質的に相互依存的な新しい生き方を運動が要求する行為による、他ならぬその[言語的・身体的]活動自体に宿るのです。ひとつの社会的な運動はそれ自体社会的なかたちなので、社会的な運動が新しい生き方を、生きるに値する生のかたちを求めるならば、そのとき、その運動は、実現しようと追究しているもろもろの原理原則そのものを、運動それ自体の裡に立法*46しなければならないのです。ということはつまり、運動がうまくいけば、ラディカルな民主主義の行為遂行的な立法行為[enactment]がそのような運動のなかにこそ存在し、そうした運動だけが、生きるに値する生という意味でのよい生を[行為遂行的に]意味して導く可能性を、わたしたちの生と関係づける*47かもしれない、ということになります。わたしが提案しようと試みてきたのは、生の脆弱さは、いくつかの新たな社会運動が格闘する相手となる条件[節]である、ということです。そのような複数の運動は、生の脆弱さと格闘するにあたり、相互依存どころか生来の人間の傷つきやすささえ克服しようとはしません。むしろ、そうした複数の運動は、人間の傷つきやすさや相互依存が、その許でなら生きるに値するものとなるような諸条件[節]を生産しようとしているのです。これこそ行為遂行的活動が身体的なかたち、それも複数の身体的なかたちをとるような政治学であり、それはラディカルな民主制の枠組みの埒内にある身体的生存、身体的な永続性、身体的な繁栄といった諸条件[節]に批判的な注意を引き寄せるのです。わたしがよい生を過ごす[導く]というのであれば、それは他の人やもの、環境*48と生きる生に、そうした他者がいなければ成り立たないような生になることでしょう。わたしは、今存在しているこのわたしを喪いはしないでしょう。わたしという存在が何者であれ、他なるものたちとの繋がり次第でわたしはかたちを変えていくでしょうから。なぜなら、わたしがわたしではないものに依存していること、わたしがなにかに依存できるということは、生きるために、そしてうまく生きるための必要条件だからです。わたしたちが共に生の脆弱さに曝されているということは、裏を返せば、わたしたちが潜在的には平等であり、生きるに値する生の諸条件[節]を一緒に生産する義務をお互いに負っている、というひとつの共通基盤でもあるのです。わたしたちは、お互いがお互いに対する欲求を持っていることを素直に認めることによって、わたしたちはまだ「よい生」と呼べるかもしれないもの、その社会的・民主的諸条件[節]のなかにかたちづくられる*49基本的な原理原則をも認めることになります。こうしたことが、民主的な生の重大な=批判的な[critical]諸条件[節]です。本日お話しした諸条件[節]が重大=批判的な意味をもつのは、まずもってそれらが部分的には目下進行中の危機であるということであり、しかしそれ以上に、それらがわたしたちの時代のさまざまな喫緊の要事に反応するような思考や活動のかたちの子供*50でもあるからなのです*51
 この名誉に、そして今宵、管見のいくらかをみなさんと分かち合うべく、わたしに授けてくださったこの時間に感謝を表します。

11 September 2012, Frankfurt

 ※本講演に関連すると思われる文献のうち、以下に挙げられていないバトラーの邦訳文献として、触発する言葉―言語・権力・行為体生のあやうさ―哀悼と暴力の政治学権力の心的な生―主体化=服従化に関する諸理論 (暴力論叢書)、未邦訳文献としてはBodies That Matter: On the Discursive Limits of Sex (Routledge Classics) がある。 
 

 原註
 

 1. Theodor W. Adorno, ミニマ・モラリア―傷ついた生活裡の省察 (叢書・ウニベルシタス) Minima Moralia: Reflections from Damaged Life, trans. E.F.N. Jephcott, New Left Books, London, 1974, p. 39.
 2. Theodor W. Adorno, 道徳哲学講義 Problems of Moral Philosophy, trans. Rodney Livingstone, Polity Press, Cambridge, 2000, p. 19.
 3. Ibid., pp. 138, 176.
 4. Ibid., p. 169.
 5. Hannah Arendt, ‘The Answer of Socrates’, in 精神の生活〈上 第一部 思考〉 精神の生活 (下)―第2部 意志 The Life of the Mind, vol. I, Harcourt, 1981, pp. 168–78.

 6. Hannah Arendt, ‘The Concept of History: Ancient and Modern’, in 過去と未来の間――政治思想への8試論 Between Past and the Future: Eight Exer- cises in Political Thought, Penguin, Harmondsworth, 1968, pp. 41–90.
 7. See my ‘Introduction: Precarious Life, Grievable Life’, 戦争の枠組み―生はいつ嘆きうるものであるのかFrames of War: When is Life Grievable?, Verso, Lon-don, 2009.
 8. See Donna Haraway’s views on complex relationalities
in 猿と女とサイボーグ―自然の再発明 Simians, Cyborgs, and Women, Routledge, New York and London, 1991; and ≪未邦訳≫ The Companion Species Mani- festo, Prickly Paradigm Press, Chicago, 2003.
 9. Gilles Deleuze, ‘What Can a Body Do?’, in スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440)) Expres- sionism in Philosophy: Spinoza, trans. Martin Joughin, Zone, New York, 1990, pp. 217–89.
 10. Adorno, Problems of Moral Philosophy, p. 167. 11. Ibid., pp. 167
 11. Ibid., pp. 167–8.
 12. Ibid., p. 168.

*1:morality。

*2:good/badというモラルの問題。lead a lifeは「人生を送る」。ここでは、人生という時間のスパンよりも生の在り方を問う論調であることから「生」とし、さらに「送る」には「遅れる」、あとからついていくという含意がある上、leadは「先導する、導く」の意味でも使われているためこのような訳にした。

*3:form。formulation, transformationなど、形式に関する用語が頻出する。形相、あるいは悟性概念における権利関係の決定等の含みもあるかもしれないが、ここではそれなしでは物事を見たり判断することのできない「枠組み」のようなものだと思えばいいかもしれない。「枠組み」をよりよいものに変えることがバトラーの批評活動の核にある。

*4:foreclosure。もともとは主体の形成を説明する精神分析の用語でバトラーの著作に頻出する用語。ここではなにかを排除することによってなにかが確立するという程度の解釈でいいと思う。

*5:わたしの生は部分的に社会的なものでもあるため、わたしの生に含まれるものすべてを単独で「導く」ことはできない。

*6:後期フーコーに端を発する概念。

*7:organize。

*8:governmental。統治性は後期フーコーの鍵語。権力は統治性を通じて拡散する。

*9:management。

*10:precarity。vulnerabilityが生まれながら有する弱さによる連帯の条件である一方、その弱さゆえにそれは権力によってprecarityへと貶められる可能性を持つ。紐帯の結び目は権力の容喙する裂け目でもある。

*11:dispose。病的な状態へと配置する。プレカリアートを示唆するdisposableの含意もあると思う。

*12:measure。改訂しました。

*13:foreclosureを想起。予め設けられた生の枠組み。端的に「悪い生」のこと。枠組みの範囲を示すwithinは「埒内」と訳している。

*14:shadow-life。イリイチの『シャドウ・ワーク』に準じた表現だと思われる。見えない(ことにされている)生。

*15:take place。

*16:political agency。佐藤嘉幸さんのご指摘を受けて訂正しました。

*17:belong to。子供と訳した理由はconceptionの件で後述。

*18:カントの「可能性の条件」、認識できない理性理念、超越論性といった、認識を変える可能性をもったものに期待するぐらいの意味か。

*19:ある言動や信念を正しい選択だと思わせる枠組みがrationality。ここではネオリベラリズムという現代的な社会構造に特化した合理性(生活保護受給問題、年金未納叩きなど)に人々が染まっていて、その範囲内での選択を正しいと思いこむようになっていることが示唆されている。

*20:modalities。mode of productionに言語的・法的含意を加えた? 改訂しました。

*21:due process。

*22:action。アレントのいう活動的生活のうちのひとつ。社会的な行為の結果として自身の社会的存在価値を明らかにする。ギリシアのポリスを霊感源に構想された概念。以下の話はギリシアのポリスを念頭に置いている。

*23:the political。politicsとは異なる、政治の外延であり、政治を変える可能性をもつもの。

*24:conception。妊娠の含意がある。

*25:instrumental purpose。道具主義的目的。ここでは労働意欲を上げる要因ぐらいの意味でいいと思う。

*26:embodied。身体を考慮に入れた思考や活動。

*27:act outのニュアンスで訳している。

*28:performativity。行為する、活動する身体を伴った発話行為の概念。身体は言葉のように公的な領域にあるものとして働き、言葉は身体のようなかたちあるものとして、かたちを変えるものとして振る舞う。

*29:enact。文意に沿うように訳すと、en-genderと同様、en-act、行為者の内側に立法する、というようなニュアンスになる。

*30:relationalities。言語行為論を身体にも適用するので、身体は文法的に構成されることになる。

*31:conditions。条件や情況と訳している箇所でも、条件法の含意がある箇所は他にもある。文法関係による分析。

*32:paternalism。温情主義。苦境に陥っている人々に根本的な解決にはならないような支援の手を差し出すことによって、支援の手を差し出す側に立ち続け、差別の構造を維持する。

*33:つまり、時には自然や科学に訴え、変容の可能性を認めず、恒久的に決めつけるような用語。

*34:社会契約論。ある種の契約によって社会は成立する。ここでは人間の傷つきやすさのほうが契約よりも先に人間を結びつけており、ある種の社会的関係を構成していることが論じられている。

*35:動機づけの問題。ここでは互酬的関係にも利害関係に動機づけられたものがあるが、傷つきやすさの次元はそのような利害の水準にはない、ということ

*36:"I"。言語で呼ばれる、言語に書き込まれた「わたし」。

*37:movement。身体を伴う。

*38:個人的な生であると同時に社会的な生でもあるということ。

*39:生きる価値のないもののネットワーク。

*40:the Other。ラカンの大他者か。それなら言語に置き換えてもいいかもしれない。

*41:organic life。社会的に生として組織された生。

*42:条件節を与え。

*43:being worked out。個人的な言語行為が、倫理的な生の規範の形成に影響を与え、かつその個人的な言語行為はそのような生の規範に依らなければ不可能だということ。

*44:articulate。分節=節合化。意味がわかりにくいので、意訳した。ごく簡単に言うと、確立されている非対称な関係を突き崩し、繋がっている関係を外したり、また繋ぎ直したりするような概念。「起源」や「本質」のような静的な概念の批判を含意するが、ここでは文法的な「条件法」を「条件節」としての運動によって立ち上げ、それとの関係を結ぶ、という意味のほうが強い。スチュワート・ホールが有名だが、バトラーの場合、もっと言語学的・言語行為論的な「分節」に引きつけていると思われる。たとえば、主体の構成など。

*45:enact。

*46:enact。より正しい法を求める運動それ自体が、そうした新しい法を体現している。

*47:articulateを意訳。

*48:単にothersだが、ここは世界すべてを生とみるバトラーの見解を反映させて訳している。

*49:inform。諸条件[節]を知らしめる。formの含意を前景化して訳した。

*50:belong to。cenceptionの件を敷衍した。

*51:第一段落を参照