コンヴェンショナルなものの行方とlife writing

 性的表現に厳格だったヴィクトリア朝アメリカに秘められた性的生活の数々を、私信・伝記・日記の三点セットから紐解く一冊。
 ディッキンソンの詩を編纂したメアリー・ルーミス・トッドがディッキンソンの兄と結んでいた不貞関係に始まり、ロマンティック・フレンドシップとも呼ばれ女性同士の精神的交流と目されていた「ボストン・マリッジ」の実態を克明に暴き、貞淑な女性作家、イーディス・ウォートン像が崩れる様をまざまざとみせつけ、ジョン・デューイやH・L・メンケンといった東海岸の巨星たちの秘された性生活を読み、絶倫セオドア・ドライサーの性遍歴が赤裸々に語られ、エレノア・ローズヴェルトとF・O・マシーセンそれぞれの同性愛、さらにはシモーヌ・ド・ボーヴォワールの間大西洋的遠距離恋愛まで盛りだくさん。
 露悪趣味に映るかもしれない。だが、これが露悪趣味に映るなら、それこそ本書中何度も言及される「コンヴェンショナルなもの」の縛りが未だに根強いことの証左だろう。事実、これらの私生活は20世紀の性革命が進行するにつれて徐々に公のものとされてきたわけだが、かといってそうした「いかがわしいもの」を秘したままにしておこうとする圧力が雲散霧消してしまったわけでは決してない。私的なものを暴き立てる所作に敏感な態度は、公私の別を引く仕切り線、すなわち「コンヴェンショナルなもの」の存在を隠蔽しつつ、その規範としての正統性を追認する。どの時代であれ「コンヴェンショナルなもの」は秘密をめぐる感情の機微を発生させる磁場となる。ヴィクトリア朝の性規範からの逸脱を追う作業はそのまま、現代の新しい「コンヴェンショナル」な体制を反省する起点となるというわけだ。
 もちろん、竹村和子が『愛について』のなかで論じるように、セクシュアリティや愛は本来非‐知の領域に属する定かならぬ情動であり、局所、あるいは局部に限定することはできない欲望を言い表す仮名である、という点は銘記しておくべきだろう。ホモエロティックな記述が直ちに性器を通じたホモセクシュアルな行為と結びつくわけではないし、身体的接触のないロマンティックな恋愛が存在しないという論法は端的に成立しない。注目すべきは時代を問わずに作動する「コンヴェンショナルなもの」がセクシュアリティの幅を限定し、男や女、父や母といった性別に押し込めるそのやり口だろう(そこでは女はpassionlessな生きものだとされ、欲望を受け入れる客体の位置を宛がわれることになる)。つきつめればコンヴェンショナルなものとは、次代再生産の工場とでもいうべき「家族」の形態の謂いである。フェミニズムが第二派へと向かうとき、闘争のベクトルが、生産様式に女が加わることから、女を束縛する再生産様式を撃つことへと転じたことを思えばいい。そして今は、生産と再生産とを直結させている家族という形態を変形させて、新しいつながりと切断のありかたを問い直す時代に差し掛かっている。けれども今でも「家族」が規範であることに変わりはない。
 だから本書を読むときにわたしを襲ったのは、「家族」というものが昔から規範として厳格に機能していたわけでは決してなく、むしろそれは数多あるなかのひとつの愛のかたちに過ぎないものであって、さまざまなかたちの愛が秘されたままであるとはいえ比較的自由に営まれてきた、ということに対する感慨だった。そして、いかに自分の思考が「家族」という窮屈な枠組みに押し込められているものか、思い知る経験でもあった。本書は露悪趣味であることを厭わない。むしろ本書は、露悪趣味に映るその嫌悪感や吐き気、軽蔑、あるいは興奮といったかたちの定まらないさまざまな情動を誘う。コンヴェンショナルなものは今ここにある、と千々に乱れた心は教えてくれる。
 そしてもう一点、秘匿されたエロスを痕跡として残す手紙・日記・伝記の三点セットにも触れておかなければならない。コンヴェンショナルな文学の体制では、このような「史料」はあくまでも文学作品の付属品であり、作品と作家の天才を顕彰するために体よく編集されたパラテクスト・サブテクストの域を出なかった。しかしながら近年、life writingという用語が登場してきたように、手紙・日記・伝記の類を文学的技巧や思想には従属させず、より開かれた生の証言として研究する動向も見られる。このライフ・ライティングの観点に立てば、もはや文豪の手になる小説や桂冠詩人が残した韻文はその特権的な位置を失う。しかしその代わりに、自らの意見を公表する機会のなかった無名の人々の残した書きものが、高踏・野卑問わず、さまざまな生のかたちを証言する重要なテクストとして浮上してくる。それだけではない。ライフ・ライティングは、手紙・日記・伝記とフィクションとの関係さえあやふやにさせる。それらすべての紙葉は、有名・無名を問わずライフ・ライティングという沃野の腐葉土となる。
 するとどうだろう。知・情・意の御柱はそれぞれぽっきりと折れて、それらが渾然一体となった地平が開かれる。作品に仮託された作者の知性、あるいはヒューマニズムに貫かれた知識人なる形象はもはやそこにはいない。反知性主義という名の「惑星」が知性の否定やその毛嫌いを表す、というありふれた思いこみは糺されるだろう。反知性主義が対立しているのは、知そのものではなく、知が依って立つその≪位置≫なのだから。本書は知の高みに疑義を差しはさむ、ライフ・ライティング研究を志向する一冊だ、とわたしは思う。