- 作者: ジャックデリダ,Jacques Derrida,高橋允昭,阿部宏慈
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2012/11/01
- メディア: 単行本
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「私はあなたに絵画における真理を負っている。そして、私はあなたにそれを述べるであろう」というセザンヌの言葉は本書の導きの糸でありながら同時に絵画について論じることの困難へと読者を絡めとり、ひいては言語の謎へと読者を籠絡するまだらの紐となる。本書の主題、それはそれ自体主題となりまた反=主題ともなり、時に無題へと消尽する、「パレルゴンの執拗な無場所性(アトポス)」だ。
パレルゴンは、「額縁や、タイトルや、署名や、解説」といった「作品」(エルゴン)の外部を構成する。それは、一義的には作品を補完する付け足しでありながら、それなしには作品を完成させることのできない不可欠な要素、すなわちサブテクスト、パラテクスト、アトリビュート、シュプレマンといった問題系に属している、という直観は、恐らく正当なものだろう。さらに「絵画における真理」を語ろうとするデリダの書物、そしてその書物に印字された文字の連なり、これらも等しく絵画、及び藝術作品の外に存する限りにおいてパレルゴンを構成していることに、序言を一読すれば気づくに違いない。
絵画に関する言説はおそらくは、それらの言説が何をなすものであろうと、何を述べるものであろうと、それらを構成する限界を再生産するべく運命づけられているのかもしれない。それらにとっては、そこになにがしかの作品が存在するや否や、作品の一つの内部と一つの外部が存在することになるのだ。
ここで述べられているのは、作品と言説の関係である。端的に言えば、言説は作品に迫れない。言説はその作品への近寄りがたさを繰り返し語ることになる。したがって、作品が存在するということは、それを語る言説が絶えず自らを作品の外部として位置づける「運命」によって、批判はおろかお上手さえ一言たりとも発する前から、作品の内部と外部とが厳然と分け隔てられていることを意味する。絵画について語ること、それはそれについての言説が決して作品にはなれないということは、作品の内外を分かつ乗り越え難い「線」を確認し続ける営為だと悲観的にまとめてしまってもいいだろう。パレルゴンを定義するなら、その境界線を画定するなら、その作品の外部としての「位置」、と教科書的に記述してしまえばいい。
だが、作品の内外を区別する「線」は誰が引いたのか。線はどこに引かれたものか。どのようにして線を引いたのか。そもそも線とは何か。こう問い始めたとき、パレルゴンは批評用語ではなく、「問い」として、投げるべき賽としての命を得る。
賽を投げ続けよう。作品にとって外的な位置を占めるものが、線を引くのではないか。むしろそれらは外部をつくる、あるいはこう言ってよければ作品の外部を生産するものであり、同時に作品を内部として生産している、とさえ言えるのではないか。
まだ問いは終わっていない。
作品は線でできていることを思い出そう。形相/質料の例を持ち出すまでもなく、西欧美術において線は決定的な意味を持っていた。線はかたちを産み出す。彫刻の地位が高かったのも、それが彩色とは無縁で、ひたすら輪郭線を削り出す技巧だったからだろう。色だけではそこにあるものがなにかわからない。そこになにがあるのかを人間に認識させるのはそのかたちであり、かたちを産み出す線だ。
線の問いは、藝術作品に関する言説にも跳ね返ってくる。言説は、ひとつひとつ鉛筆で、ペンで、紙の上に書かれた文字の集積だ。たとえ物質として残るものではなくとも、言説はすべてかたちをもち、線によって予め書かれている。
藝術作品とそれについて語る言説、その違いはいったいなんだろう。両者のあいだに違いはないのではないか。むしろその差異は、作品が産み出されたあとに、産み出されるものなのではないか。
さらにこう問うこともできよう。作品に関する言説の存在には係わりなく、作品は作品そのものの製作過程において、たくさんの線を引かれ作品となる。作品はそれ自身、内部と外部とを線によって切り分けながら完成するものなのではないか。言い換えるならば、作品とは、その内部にたくさんのパレルゴンを外部として宿す、幾重にも線を引かれたものとして生産されるものなのではないだろうか。紋中紋、あるいは入れ子構造のように、十重二十重に引かれた線が内部/外部を生産した成果としての作品。だとするなら、作品を語る言説は作品の絶対的な外部にあると断言できるだろうか。むしろ作品についての言説は、作品が作られる原理と類比の関係にある原理を宿していないだろうか。自然の産出力に似た藝術家の創造性、それと類比の関係を結ぶ内的なものを生産する力。そしてそれと同程度、壊乱的な撹乱の外的な力。
作品について語ることは、作品から切り離された高みや安全地帯に場所を得ることなのではなく、作品、ひいては藝術家がすでに巻き込まれているものとよく似たエコノミーに巻き込まれるということなのではないだろうか。藝術家だけではなく、藝術について語るものもまた、ピュシスの豊穣なる産出力のエコノミー、エコノミメーシスと一蓮托生、骨がらみになっているのではないか。その内包はまだ途方もなく豊穣だが、さしあたり巻き込まれの淵源たる下手人、「パレルゴンの執拗な無場所性(アトポス)」をそこへ繋留しておいても大過はないだろう。
だからこそデリダは、本書を、つまり藝術についての言説を「パス=パルトゥー」(passe-partout)の上に書く、と宣言するのだろう。
【参照元:http://www.scrap-cadre.com/?p=266、http://www.kunstrestauratie-atelier.be/en/inlijstingen-passepartout.html】
私は額縁職人にはよく知られているパス=パルトゥーの上にじかに書くのである。それも、この白紙の[処女の]と言われる面、一般的には四角い厚紙に切り抜かれ、作品を見せるためにその「中心[milieu]」が開かれている表面を、じかに切り開く[始める]ために。作品の方はどうかといえば、作品は、第一、その時々によって、このような形でパス=パルトゥーの中に「事例」として潜り込まされる別の作品にとって代わられることもある。このような点では、パス=パルトゥーは、根底において可動的な構造であり続ける。しかし、何かを見せる[見えるがままにする]ということについては、それは厳密な意味における枠[cadre]を形成しはせず、枠の中の枠を形成するのである。言うまでもなく、自らの裡に空間を作らせずにおかないそれは、額縁の固有の内側の縁取りとして、額縁と、それが見るものとして提示するもの、その空虚な囲みのうちに見えるがままにするあるいは見せるもの、つまり、図像や、絵や、肖像や、形態や、線のシステムや色彩といったものの外側の縁取りとの間で、おのれのゲームを賭ける、あるいは厚紙を戯れさすのである。
ジュール・ヴェルヌ『80日間世界一周』において賭けにのって旅に出ることになったフォッグの従者、その名はパスパルトゥーだった。艶歌師、サーカスの軽業師、体操の教師、パリの消防士と職から職へと渡り歩いたパスパルトゥーは、フォッグに附き従って旅に出る。だが果たして、どちらが物語の主役だっただろうか。なにかに巻き込まれる時、巻き込んだ側が主導権を握るとは限らない。巻き込みは、観察したり批評したりできるだけの距離を奪ってしまう。
パス=パルトゥーの上に書くということ。それはたとえば、カントについて書くこと≪と≫カントのように書くことのあいだでの戯れ、あるいはその≪と≫という「あいだ」の無根拠性を問い続けることに他ならない。