クリント・イーストウッド

 キリンカップ、日本―チリ戦。代表の試合を観るのはかなり久々のことで、どういうメンバーがどういうやり方でやっているのかすら知らなかった。観て驚いた。
 遠藤がまったく目立たないほどに前線の若い選手が躍動する光景は清々しい。特に、オランダ2部リーグでMVPをとって凱旋した本田のゴールへの執着は、チームの隅々にまで黒々と憑いてそこここで跳梁していた。溜め込んだ執着を足に装填して次々にゴールめがけてぶっ放す。数撃ちゃ当たる。この日は効率もよかった。そして岡崎の調子もよかった。
 戦術的には縦の関係が素晴らしい。ボールがある局面に対して後方に位置する選手が積極的に絡もうとする。センターバックの中澤がラストパスを送って得点に結実した場面など象徴的ではないか。ボールホルダーの後方3メートル以内に誰かがいる、という構図は戦術的に徹底されているのだろう。それは第一にボールの前に確保できるスペースがあれば後ろの選手が追い越し、追い討ちをかけ、手詰まりになれば後ろに戻しラテラルな再展開を狙うため。そして、行き詰って取られそうになれば後ろの選手がすぐさまボールの捕獲者にまわり、ボールを高い位置で奪い、攻撃を継続させるためなのだろう。とにかく攻撃が途切れなかった。チリの選手たちには捕まえ切れなかった。
 守備面での課題はある。「振り向けばやつがいる」式の網を突破されたあと、チリのカウンターにどう対応するのか。頭を切り替えて陣形を整える前にパスを回され、崩される場面が多々あった。身体を張ったディフェンスで失点だけは免れた。ボールを獲りに行くのか、スペースを埋めるのか、状況を瞬時に見極めて、統率をとる必要があるだろう。
 それから個の問題。当たりに行った側なのに当たり負けして地面に転がされる場面があった。南米の選手たちは、日本の選手と体格は変わらないが、体幹の強度が違う。接触しないでボールを奪う技術を磨くか、愚直に身体をビルドアップするしかないと思う。育成年代での課題だね。
 18歳の山田くん、なかなか度胸がいい。顔は中学生みたいなのに。
 さらにCL決勝を生で観て寝不足。

 真藤順丈『地図男』二周目に突入しながら、これをつまみ読む。もう少しあとに特集していたら、もう少し『グラン・トリノ』について語る言葉も成熟し、増えていたに違いない。基本的には映画史的文脈からイーストウッドの批評的ポジションを見定めようとする論考ばかり。勉強にはなるが、イーストウッドの映画も数えるほどしか観ていないし、そもそも映画マニアではないのでそれなりのおもしろさに止まる。まあ、もう少したくさん映画を観ろ、ということなのだろう。監督と脚本家に対するインタヴューはおもしろかった。それからこれ。
 
 

 低い地響きのような声であたりかまわず不平と差別を口にする老人コワルスキーの背に穿たれた弾痕。わずかに硝煙を残すその弾丸洞からわれわれは実に多くのことを知らされる。おそらく『グラン・トリノ』のイーストウッドをめぐる批評言説は適時、その映画史的意味を明らかにするだろう。[中略]
 だが、こうした言辞は間違いなく排他的なものになるから、他人とこの映画を語る際には、充血するほどに眼を凝らして見はしたが、私は映画とは別のものを見ていたかもしれないと言う。あと何度も見るには見るが、数年は同じことを繰り返すだろう。なにも見なかった、まったく別のものを見てしまった、と。そして私にとっても「世界」にとってもいい機会が訪れたら、改めて初めて見る映画のように、『グラン・トリノ』を見たいのだ。それがイーストウッドの九十数歳の誕生日、五月三十一日のことだったら幸福というものだろう。その翌日が誕生日の私が生きていればの話だが。

 
 映画は、映画を語る「批評言説」によって縛られている。視野や視力を限定するめがね、あるいは目の粗いざる。そういうフィルターを通し、映画を構成する要素として純度の高いと認定されたものだけが「映画」として目に映る。「映画」は「排他的」なもの。極言すれば、そういうフィルターがなければ、映画は存在しえないのかもしれない。でも、いや、だからこそ、フィルターに引っかからない映画ならざるものを映画として発見していく行為に意義はある。そうやって、フィルターの精度は上がり、フィルターの上に残る映画も豊穣さを増していく。
 詩人はわかっているくせに「わからない」と韜晦しているわけではないし、一般人には分からない秘儀的な批評言説に酔っているわけでもない。お仕着せのフィルターの扱い方ばかりに長けるのではなく、そこに盲点があることを認めること。「なにも見なかった」というのは盲目なのではなく、盲点を掬い上げるひとつの視点であることに気づくこと。そして見つかった何かを批評と映画のために磨くこと。それが、映画=批評言説を豊かにする。そう曲解することにした。*1

*1:より具体的には、イーストウッドを語る批評言説を『グラン・トリノ』が裏切った、ということだろう。この作品には既成の「イーストウッド」批評言語では追いつかない何かがある。だから詩人は本作を「諦念」ではなく、「真の驚異」の始まり、と評している。