痛院。開口指三本+αまで回復。あわせて気力も回復。顎関節症を患っている人たちはさぞ毎日つらい思いをしていることだろう。
入院も選択肢になるほどの重症だった、と今頃聞かされる。体調を崩さない程度に呑んでもよろしい、との御沙汰。明日の友人の結婚式では呑める。薬も申し訳程度の量になった。来週木曜日に抜歯予定。
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CL決勝、バルセロナ−マンU、スタディオ・オリンピコ(ローマ)。
拙速に当たり前のことをいってしまうと、開始直後から始まったマンUの猛攻を凌ぎ、10分に訪れた最初のチャンス、個人技でファン・デル・サールの牙城を崩したエトーのゴールがすべてだった、と思う。そのゴールが心理的余裕を生み、大舞台における経験値の差を埋め、バルサは自分たちのサッカーを取り戻した。
戦術的に一年生監督グアルディオラは、歴戦の名将ファーガソンの上をいった。いつもは右に配されることの多いメッシが中央にスライドし、右にエトーが入ったのは、結果的に成功だった。マンUは一昨シーズン正攻法でミランに完敗して以来、3センターを導入し、CLで使ってきた。概ね、3センターは高い位置でのポゼッションに不安がある場合、中盤のボール支配で負けないため、そして支配できなくともディフェンスを堅牢に組むために使われ、効力を発揮してきた。今回の3センターでは、ルーニーが左に、ロナウドがトップに位置する布陣で、ダニ・アウベスがいないとはいえ、メッシの君臨する(バルサの)右サイドで優位に立つ意味合いが強かったはず。ところが、メッシは真ん中にいた。チャビとイニエスタというふたりの傑出したマタドールを擁するバルサの中盤に、メッシまでもが下りてくる。稀代のファンタジスタ3人を喉元に突きつけられ、3センターで中盤を抑えこむという目論見も、水泡に帰した。マンUがテヴェスやベルバトフを入れて2トップになっても流れは変わらず、2点目をメッシがとったあとは、アンリを下げて代わりにケイタを入れ、中盤の支配力を上げる選択をした。試合を通じて裏をかいたグアルディオラの勝ちである。
しかし、そんな戦術的な解釈は、今回の場合、あんまり必要ないような気もする。2−0というスコア、そして最多パスはバルサが中盤のチャビ、マンUはディフェンスリーダーのファーディナンド、というどこでボールを保持したかが一目でわかるデータから見れば、バルサの完勝といってもいいかもしれない。けれど、チャンスはほとんど平等に訪れた。ゆっくりボールをキープしながらギャップができたところを一気に衝くポゼッション志向のバルサと少ない手数でゴールを陥れるカウンター志向のマンU、というチームカラーの違いを考慮すれば、力の差はあったとしてもほんの僅かだと思う。では何が勝敗を分けたか。それはセンターバックの出来ではなかったか。
異論はあるだろうが、私はバルサのピケがMVPだと思う。ピケが何本マンU攻撃陣のラストパスをカットしたことか。潜在的な決定機はかなりの数に上るに違いない。シュート態勢に入ったロナウドやルーニーに身体を寄せ、多くのシュートは枠を外れた。ピケの読みと献身、そして付け加えるならフィードの正確さは抜群だった。マンUで出場機会に恵まれなかったピケだが、今後10年はバルサのゴール前に立ちはだかり続けるだろう。
対して、シーズン終盤からパフォーマンスの低下が目立ったマンUのヴィディッチ、怪我明けで試合勘に不安のあるファーディナンドはもうひとつの出来だった。特にファーディナンドはチャビのシュートを警戒するあまり、背後のメッシをフリーにし、2点目を許したという点で、戦犯のひとりだといえるかもしれない。
これでバルサはトレブル達成、しかもメッシは得点王、バロンドール受賞確実と目されている。今季世界中を魅了した「フットボル」を思えば、一番優勝にふさわしいチームが優勝したということだろう。昨季のアーセナルといい、最高のサッカーが最高の栄誉を手にすることは極めて稀なので、これは万雷の拍手で歓迎すべき。対するマンUも、リーグカップとリーグの2冠、クラブW杯まで含めればこちらも変則トレブルということで、過密日程の中、よくやったのではないかと思う。来季はおそらくロナウドはいなくなると思うので、さてはてどんなチームになっているでしょう。両チームの名勝負数え唄に期待。
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- 作者: 難波功士
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2009/04/17
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バルトの神話論ではないが、著者の問題意識は、書かれている情報や解釈よりもその書き方に表れている。
あとがきで著者はこう書いている。
こうした本を書こうとしたまずいちばんの動機は、05年暮れに放映され、テレビ東京編『所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!?』(ホーム社、06年)として活字にもされている、「なぜ不良のことをヤンキーというの?」「それは70年代大阪アメリカ村に不良がたまったからだよ」という俗説を正したかったからである。
事実、本書は、「ヤンキー」の起源・語源を探究することから始まる。そして、「ヤンキー」の起源は示される。しかし、その言葉が辿ってきた経路は限りなく複雑化していく。読み終わっても「ヤンキー」という語の深みとその全貌は依然窺い知れない。
「ヤンキー」という語が喚起する単純な不良のイメージは、「ヤンキー・メディアの隆盛」の章が明らかにしているように、メディアが作り上げている。互いに反目しながらも絡まりあっている坩堝のような閏統文化を十把ひとからげに扱い、その上澄みだけをすくって一枚岩のイメージを構築する。わかりやすさを追求する過程で、余剰はこそぎ落とされ、ダイナミズムは壊死する。残されたにがりも臭みもない健康的なイメージを享受し、それに感化された次の世代がそのイメージを身にまとう。
もちろん、単純化されたイメージから生み出されていく飼いならされた「ヤンキー」も文化だ。だが、それは「ヤンキー」の全てはない。「ヤンキー」の一部に過ぎない。本書の功績は、巷間に流布する飼いならされた「ヤンキー」を、総体としての「ヤンキー文化」の一部として提示、「相対化」した上で、巻末に付されたダイアグラムが物語るように、ヤンキーの錯綜と輻輳を「ポジティヴに」記述しているところにこそ求められる。
個別の議論で思わず膝を叩いたのは、X−JAPANの熱狂的ファンダムやアイドル黄金期の親衛隊とJリーグのサポーターは類縁関係にあるという議論、それからヤンキー文化の三要件のひとつ、ナショナリズムとの関係で、彼らが日本を国家ではなく、地元として理解し、「ジモト・ニッポン」を求めているという議論だった。なるほど、ヤンキーは消えたのではなく、浸透した、ということなのだろう。
まだ始まったばかりの研究領域のようなので、今後、より広い文脈で階層化や権力との関係を明らかにするモデルとしての総論、反対にひとつのトピックや地域に限定し掘り下げていく各論を期待したい。