入会地を求めて:『知の社会史』を読む

知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか

知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか

 書籍や図書館について書かれた文化史は数多ある。だが知識一般の概略を社会史(social history)として示した類書は多くはないだろう。ここでいう社会史とは、sociusの歴史、つまりは社会関係に対する反省的思考のことだと思う(間違っているかもしれない)。歴史・文化史の類は、通例、通時的に出来事を追う。しかし本書はヨーロッパのさまざまな地域での社会的現象を、その現象的類似性を糊としてひとつひとつ関係させる。時系列よりも関係性のほうが重視される。歴史は、雑多な時間に息づく同質的な現象の堆積として呈示される。
 社会史の基本単位となるのが、章の区分だ。それぞれの章のなかで、CTスキャン画像のようにスライスされたレイヤーが積み重なってひとつの臓器を形づくる。各章を総合すれば、初期近代ヨーロッパにおける知の在り方が安易な統一を拒みながらも朧に浮かび上がる。CTスキャンによって輪切りになった画像が、各臓器ごとにテーブルの上に積み重ねられている光景を想像すればいいだろう。各臓器は輪切りの総和としてそこに存在している。しかしその総和は、そこから日々接する息した人間の姿からはかけ離れている。それを人間だと認識する(recognize)としても、人間に対する認識方法(cognition)をその場で新しく構築しなければならない。初期近代ヨーロッパ史碩学、ピーター・バークが採る社会史とは、およそこうした微分的な、綜合なき総和のようなものだろうと思う。
 臓器の方は・・・。まず、知識(knowledge)と情報(information)の区別。本書は未加工の知未満のもの、たとえば時事ニュースのような類を「情報」とし、その情報から帰納される着地点、かつさらなる情報処理を演繹する起点に「知」を位置づける。さらに「知」はアカデミックなものや哲学、神学といった高尚なものには限定されない。職人や商売人がもつギルド的な知識や、民間伝承のような真偽不明の知恵袋も知としてカウントされる。このように普遍的に拡散する知は、本書において初期近代という時間を輪切りにするCT本体の役割を果たすことになる。
 教会と大学の知をめぐる相克、実用的な知とメタフィジカルな知のせめぎ合い、権力者や官僚機構による情報管理の知、情報の売り買い、スパイによる情報戦等も読みごたえがある(複式簿記のくだりなど刮目)。しかしわたしが最も惹きつけられたのは、主要論題(commonplace)による整理とアルファベットによる整序の対立、それから精読と濫読・速読の分裂という、読者文化にかかわる箇所だった。
 コモンプレイス・ブックと呼ばれる論題別抜き書き帳が、ルネッサンス期より人々の情報整理の知として使われてきたというのは知っていた。しかしながら、ただの引用メモとどう違うのかがもうひとつ掴めずにいた。本書を一読、どうやらコモンプレイスというのは、抜き書き帳のテーマ、あるいはジャンルを指す。さまざまな本を読んでいく中で、ある特定のテーマ、たとえば説教の方法などを説いた部分をひとつのノートにまとめていく。その結果、そのノートはひとつのジャンルとして「場所」を得る。コモンプレイスブックはそのまま出版されることもあったし、著述家がその中から名文句を抜き出して自著を構成することもあった。つまり、コモンプレイスブックはその名のとおり、人々が知を共有する入会地のような場所をつくる。そして、入会地のなかにある知は、たくさんの人たちに共有される過程でその力を失い、陳腐になっていく。
 しかし、コモンプレイスはテーマの設定如何によっていくらでも増殖するものでもある。新しいテクノロジー、新しい土地との出会いによって、知の入会地、コモンプレイスはどんどん増殖していった。おそらくは印刷術の発達によって印刷物の廉価傾向に拍車がかかり、抜き書きという手間暇をかけた営みは廃れていくことになっただろう。しかしながら、このコモンプレイスブックこそが、一字一句を書きとり、それを再読し、暗記する読者の精読文化を市井へと広めていったというバークの指摘は、見逃すことができない。
 コモンプレイスブックが精読文化の入会地を成す一方、事典・図鑑のような参考図書は速読文化を担っていた。調べたいものがあれば事典を引く。目次や索引、アルファベット順の整序に頼って、瞬く間に必要な知に到達する。こうした効率のよい知の獲得は、世界が急速に拡大し、近代化が進むなかで、欠かすことのできないものとなっていた。すべてを懐に抱え精読するほど、時間はない。実際に処理しなければならない情報の量は、フェリペ二世の時点ですでに耐えがたいものになっていたというから、情報を効率的に処理する知が尊ばれるのは現代と変わらない。ただし、効率化は知から有機性を奪う。事典や図鑑を通読する人などいないだろう。偶然引いた部分と引いたことがない部分との関係性は断たれる。参考図書そのものの成り立ちからして、コモンプレイスブックのような有機性は期待できない。
 バークの用語法に倣えば、多くの情報が知になる前に眼の前を駆け抜けていく時代に生きているひとりとして、効率的に必要な情報を知に変える技術を放棄することができないのはよくわかる。今では、情報整理を効率化するツールやメディアがたくさんありすぎて、情報より先に、情報技術のほうを間引かなければならない時代に差し掛かっている。フェイスブックツイッターもミクシーもグーグルプラスもRSSフィードも、というわけにはいかない。
 他方で、コモンプレイス・ブックのように、再三再四再読し、読む対象を座右の銘と変える精読の技術も忘れてはならない。こちらも情報処理の知であることに代わりはないが、まるでアプローチが違う。コモンプレイスは自分でつくることができる。気に入ったところを見直す。著述家であればそれを改変したり、部分的に盗用したりもする。自分の意見を書き加えることもあるだろう。書き損じることもあるだろう。読み間違えることもあるだろう。そうしたものが再び野に放たれ、流通する。読書という受動的に見える営みは、原典の私的な咀嚼・反復ではなく、公共の場における批評的な行為へと転じる。
 読書という受容者の営みに主体性を見出すこと。それこそ精読のラディカルさではないだろうか、と思った次第。
 印象として、印刷術を革命と捉えるマクルーハン史観は、すでに印刷物という形態を超えた知、あるいはその他の物質といった問題圏によって乗り越えられているようだ。