≪婚学≫の始まり

 緒方房子「大学における「結婚講座」の始まり――1920年代の結婚観」(『アメリカ研究』15 1981:35−51)

 以下、論稿の骨子をまとめて、私見を付す。
 
 1920年代のアメリカでは、いくつかの大学で結婚講座が開講され始め、35年に255大学、40年代末には500大学以上にまで拡大した。その嚆矢となったのは、1924年に4年生の男子学生の要望に応じてノースカロライナ大学チャペルヒル本校で開講された結婚講座だった。1927年には同校はボストン大学より社会学者アーネスト・R・グローヴスを専任教授として招聘し、結婚講座は正課教育として確立することになった。
 グローヴスの見立てによれば、南北戦争後、結婚観・家族体系に以下のような大きな4つの変化が起こったという。
 
 1)産業化が進み、家庭内で完結していた家事が徐々に病院や縫製工場、学校へと外注されるようになった
 2)女性の雇用拡大・高等教育への参入により男女の社会格差に揺らぎが見られた
 3)結婚が女性にとって唯一の「就職先」ではなくなり、経済的動機ではなく愛情や安らぎを求めて結婚する女性が増えた
 4)以上の帰結として、女性が結婚に求める期待値が飛躍的にたかまり、それに応じて結婚生活の幻滅も深いものとなり、離婚率が上昇した。
 
 以上のようなグローヴスの見解を裏づけるように、学生たちが求めたのは理論や歴史ではなく、今すぐ実行に移せる実際的な知識だった。社会が急速に近代化していく一方で、依然として旧弊のままのヴィクトリア朝的結婚観を多少なりとも払しょくし、新しい時代に対応するための知識を学生は求めていた。
 1920年代に始まった結婚講座は、当時の若者たちの新旧相半ばする価値観の相克を映し出している。結婚講座の内容、並びにそこに参加していた学生たちの反応からは以下のような特徴が窺える。
 
 1)ヴィクトリア朝的性道徳
 性を夫婦の生殖のみに限定する"semen theory"、情熱的なセックスは生まれてくる子供に悪影響を及ぼすとする偏見、セックスや自慰行為に対する拒否反応
 
 2)性道徳の新しい傾向
 1920年代以降、性行為や避妊に紙幅を割く手引書が増加、性的充足を説き、女性にも性的快楽の存在を認める。ただし記述は曖昧、避妊についての記述を禁じるコムトックス法の壁。20世紀になってから生物学的知識に限定された性教育が普及。それでもなお、汚らわしいとする反応も見られる。性についておおっぴらに語る習慣が若い男性のあいだにおいても未だ存在しなかった。
 
 3)男性の育児への関心
 ジョン・B・ワトソンの育児書の登場。子供を過保護にせず、独立心を植えつけさせる。子は親に従属し、親の理想を子が実現するべき、とするヴィクトリア朝的親子観は揺らぐ。1930年代にかけて育児書が爆発的に売れる。コムストック法の存在にもかかわらず、避妊法が民間に普及。子供の数が減り、そのぶんひとりひとりの子供に対する育児の関心が増す。他方で、育児が方法論化されるにしたがい、子供がうまく育たなかった場合、神意等宗教に原因を求めるのではなく、母親の育児に批難の目が向けられることになる。男性の育児への関心の増大は「イクメン」の登場と同義ではなかった。育児の実践者は依然として女性のままであるため、母としての役割は以前にもまして重いものとなった。
 
 4)パートナー像の変容
 女性側の理想とする男性像「男らしさ、強さ、頼れる」→男らしさに加えて「美的感覚、精神や感情の繊細さ、より女性的な性質」
 男性側の理想とする女性像「不義を犯さない、慎み深さ」という消極的な女性→夫への情熱をもち、夫と共にお互いを高めようとする積極的な姿勢をもつ女性
 混乱はしているが、学生たちはcompantibility, companionship, partnershipを軸に新しい結婚像を模索。
 
 5)結婚後の女性の仕事
 家庭内においては男女平等を求める姿勢が見られるが、家庭外の活動は、依然として女性は男性の許可を必要としていた。男子学生は多くが結婚後は男が家計を一手に担うことを考えていた。他方、女子学生は仕事と家事の両立を強く求めていた。既婚女性の多くが社会において働き手として見られておらず、時として結婚を機に解雇されるケースがあったことを考え合わせると、女性とは「妻・母」のことであり、社会人ではない、という女性観が一般的だった。労働する女性は、実家の家計を助けたり、職場で結婚相手を探している存在としてカウントされていた。
 
 1920代アメリカ社会の価値観の変容と結婚講座の関係について概略からわかるのは、まず家庭内における男女平等の意識は達成されつつあるということ、依然として性に対する忌避感が強いこと、そして労働に対するイメージの男女のずれ。男性の認識は、家庭は女性の領域である、という「領域論」の範疇からまだ抜け出ていない。結婚講座が結婚によって構成される家族制度を基盤としている限りにおいて、それはむしろ「領域論」を強化するものであったかもしれない。しかしながらそれでも結婚講座は、自由に質問をぶつけ、家族制度の齟齬を表面化させる過渡的な場として評価できるのではないだろうか。

 
 と、以上のように緒方の論をまとめてみた。まず結婚講座は大学に開講されていたことを考えると、そこに集まる男女はエリートだったことが容易に想像される。ただし1920代以降進む大学の改革の結果、大学進学率が飛躍的に伸びていったため、ここには中産階級の子女まで含まれるかもしれない。しかしそれでも女性の大学への進学は限定的だったため、この場にいた女子学生は、投票権運動を始めとする女性活動家に近い権利意識をもっていた経済的に恵まれた学生ばかりだったと想像する。そのため、家庭内における男女平等という観点は、中流階級以上の男女が共有するにとどまっており、アメリカ社会全体を俯瞰した場合、そこまでの達成は図られていなかったと考えるのが妥当だろう。事実、暴力をもって妻を「教育する」という慣習は根深い。そのようなDVの悪弊は、飲酒と密接に関係していると目されていたため、女性たちが禁酒運動の主たる担い手となっていた側面もある。
 緒方の論から抜け落ちているのは、扶養義務の議論だろう。女性にとって19世紀アメリカにおける結婚の意義とは、経済的にしっかりした男性に扶養してもらうことにあった。殊に19世紀後半から20世紀初頭にかけて問題となっていたのは、夫が妻に対して扶養義務を果たさないことを素因とする係争、離婚だった。結婚講座の学生の意見を見ていると、男子学生が依然として扶養義務を果たす意識を強くもっているのに対し、女子学生は男性に扶養をあまり期待していない様子がうかがえる。それは理想の男性像の変容にも反映されている。
 また女性や子供を長時間労働や過酷な労働条件から保護する法律を制定しようとしていた当時の動向にも目を配る必要があるだろう。女性は子供と同様、男性によって庇護されるべき存在だった。保護法の対象に男性労働者が含まれていなかった点に鑑みるなら、労働権は所与のジェンダー規範に則ったかたちで解釈されており、労働そのものを根本的に問い直す視点は社会主義運動のものだった。多くの労働運動から女性は疎外されており、女性の諸権利のための運動と労働運動が連動することはなかった。このため既婚女性の労働という当時革新的な女性の権利主張も、男性の労働とは別種の問題系を構成することになった。
 昨今話題の婚学が婚活の延長線上にある一方、1920年アメリカの結婚講座は性教育や子供の養育など多岐にわたる実用的知識を授ける貴重な場であると同時に、男女の結婚観の齟齬が顕著に現れる場でもあった。結婚制度、家族制度が揺らぎ、新しい生活形態が生まれ、生き方が多様化する現代においては、結婚を重視する男女が結婚生活を送りやすくできるような基盤を整える≪実学≫以上に、結婚とはなにか、家族とはなにか、という性別規範・労働規範のありかたを歴史的・理論的に再考する≪系譜学≫が必要となっているように思う。