マルクスの現在

 もろもろ。ホルモン祭り。
 
 アメちゃん一個に釣られて、「つれション」ならぬ「つれ買い物」へ向かう小学生女子。なんと対価の安いこと。大人になるということは、アメちゃん一個ごときに釣られない腰の重さを実感するということである。やがてその重さが様々な部位に転移し、挙句、アメちゃんの正体がわからなくなり、終には自分の正体がわからなくなるのである。アメちゃん、わたしにも一個わけておくれ。
 
 本当に宍戸錠を目撃したのか否かで小一時間ほど頭を使う。おそらく、というかぜったいに、ちがう。


 

マルクスの現在

マルクスの現在

 まず、マルクス主義の変遷とその衰退を追った浅田を受けて、マルクス主義の転回点となった68年の状況を市田が分析。
 背景に党の指導力低下に伴う学生運動の活発化。アルチュセールは重層決定理論を基盤とした党の立て直しによって解決を図ろうとする(『資本論』回帰。「『状況』が求める代表関係を実践によって屈折させる装置」、要は決して現前しない最終審級(?)としての党の再定義。代表の間接性を保持。科学。重層決定の中心としての党)。対してネグリは、労働の外部に価値創出の可能性を見出すことで党の廃棄へと傾く(『グルントリッセ』回帰。資本の統制力の及ばない工場の外部に立ち、労働の拒否により資本の外部に資本主義の生産とは異なる「生産」を見出すアウトノミア運動。表現の直接性へ転換。存在論。中心なき連帯・抵抗運動)。両者の共通点は、出来事を偶有性の効果として見るという点。
 アルチュセール主義は、次第に党の現実的な影響力低下に伴い、勢いを失う。対してネグリの思想は、加速度的に世界へと広まっていく。しかし、自然発生的な運動を横断的に組織化するためのネグリの理論は、その自然発生的な抵抗運動がどのように生まれるのかを説明していない。ヒントはアルチュセールが考察した代表の概念の根幹に座る最終審級(偶有性と必然性を補完的に捉える)にある。決して現前しない最終審級ではあるが、それは水平的な接合の関係のみならず垂直的な決定の関係をも含意する。市田も浅田も、この時点(『帝国』以前の時点)でのネグリの思想の限界を、垂直的な決定の関係に対する分析がまだなされていないところに求めている。
 ということは、やはりネグリのいう「帝国」は、この垂直的な軸を世界資本主義の中に見出そうとしたひとつの帰結とみなされてしかるべきなのだろう。ただ、ネグリは、『帝国』では水平的な関係の延長線上に「帝国」を位置づけているようにみえる。資本主義の発展が「帝国」の条件を用意し、それと同期して「マルチチュード」が生成する。ただやはり、抵抗が抵抗足りえるためには、因果の決定に関わる垂直の軸に対する批判が必要だと思われる。帝国主義の残滓を半ば認めた『マルチチュード』でその批判の萌芽は見られるものの、どうもネグリは偶有性・水平軸にこだわりすぎているような印象(特に接合の関係を推し進めるあまり、「帝国」と「マルチチュード」がくっつつきすぎてしまって、どのように具体的な抵抗運動が起こりえるのかをまともに説明できないのは致命的)。結局のところ、偶有性は必然性と、水平軸は垂直軸と対になって初めて有効な理論足りえるような気がするのだが。なんてことを漠然と考えた。「入門編」までなのでとりあえず結論は保留。