権力の分析学 (ジュディス・バトラーのインタヴュー)

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 新刊『分岐路:ユダヤ性とシオニズムの批判』の出版を機に、ジュディス・バトラーに自身の最近の仕事について、権力の新たな分析学を提起いただき、インタヴュー形式で論じていただきます。彼女は近年の資本主義の進化[巻きあげ]がいかに人々をより甚大な脆弱さに晒しているかについて論じ、権力関係の多様性を顧慮しつつ、完璧に民主的でありうるような生の理念を擁護しています。
 1990年代初頭のジェンダーについての仕事を皮切りに、爾来、ジュディス・バトラーはご自身の研究分野をずいぶん多様化させてこられました。主体化の諸様式の分析は依然として彼女の仕事の核にありますが、彼女は今やフェミニスト理論にとどまらず、倫理的・宗教的問題にも取り組んでおられます。国家、ネオ・リベラリズム、公共生活における宗教の場といったことを論じながら、ジュディス・バトラーは生きる価値のある生の政治的な諸条件について問い直しているところです。伝統的な哲学のテクスト群は依然、彼女の仕事に登場しますが、彼女の分析は今や現下の政治学に腰を据えています。そうした現下の政治状況が、ゲイの結婚やイスラエルパレスチナ紛争の場合のように、時折、彼女になんらかの立場を表明するよう求めているのです。


脆弱さ、社会学存在論のあいだ


 【Books and Ideas】あなたの仕事、特に『戦争の枠組み』においてですが、あなたは脆弱さの概念を徹底的に分析していますね。脆弱さは否定できない現実ですが、どうやら社会学的な概念であるというより存在論的な概念であるように見えます。つまりこう問いたいのです。たとえばネオリベラルな市場の規制緩和に端を発する大きな経済危機もそうですが、ネオリベラリズムは脆弱さの新しい形式の根っこにあると言うことはできないでしょうか? それとも昨今の経済状況のほうこそが、人間存在を構成する傷つきやすさを耐えがたい脆弱さに変えてしまった、ということでしょうか。『国家を歌うのは誰か』では、あなたは経済的な要因を勘定に入れることの必要性、そして周りの見えていない政治分析のほうに気を取られて経済的な要因を無視しないようにすることの必要性を訴えていましたね。昨今の経済状況が与えた社会的インパクトについて、もっとお話ししていただけませんでしょうか?

 【バトラー】あなたがしてくださった交通整理には同意します。つまり、経済的な要因は人間を構成する傷つきやすさを耐えがたい脆弱さへと移し変えてしまうということですね。私が唯一ひっかかるのは、いわゆる「存在論的なもの」は、いわゆる「社会学的なもの」から切り離されているのかどうか、ということです。なるほど、ここにはふたつ問題がありますよね。というのも、ネオリベラリズムが[地球の]住人たちを使い捨てできるようなものにすべく使いまわしていて、住人達を脆弱さに曝していると主張するのであれば、こう問わねばなりません。この話は、純粋に経済の理論的根拠と(「ネオリベラリズム」による)権力の体制についての話なのかどうか、と。権力の体制というのは主体編成の諸実践を統治すること、たとえば、自己の形成だったり、道具的心性[報酬を期待して行う行動と実際の報酬のギャップ]の[行動と報酬のあいだに]最適距離を見出す方法を価格統制するようなことですが、権力の体制は、月並みに「経済的」なものの外延だった領域を含みつつも、そこを凌駕してしまうような方法で統治するのです。確かに、ネオリベラリズムの権力と浸透力たるや、経済の他律性について、そしてその稼働を司る理性的行動が、純粋に経済的なものを凌駕するその有様について考えざるをえないものです。経済的なものなくしてなにも立ち行かないこの時に、純粋に経済的なものという理念を、ネオリベラリズムのために放棄しなければならないのでしょうか?
 存在論についての問いはさらに答えにくいものです。しかしここでもう一度はっきり言っておきたいのですが、脆弱さについて考える際、全体としてポイントとなるのは、脆弱さを社会的な存在としてもっと根本から把握することです。社会学はいつもこうした前提で始めますので、前提について批判的に考えることは重要なのです。つまり、社会学的な主体の概念に触れるときなにを言わんとしているのか、そしてその社会学的な主体が存在論的な主体からどのようにして伝統的に分け隔てられてきたか、ということですね。私が主体は社会的に構成されていると主張する時、あるいは主体は他者との社会的関係において、同時にそれらを介して構成されると主張するとき、私がしているのは社会学的な主張なのでしょうか、それとも存在論的な主張をしているのでしょうか? 私にしてみれば、そうした議論をする際、存在論的なものは、社会的なものの水準のほかには生起しません。
 というのも、私が言いたいのは、人間という生き物は、別に人間には限らないのですが、生き延び、生にしがみつくために、社会的な制度に根本的には頼っている、ということだからです。つまりどんな「存在」であれ、そのような[社会的な]諸関係の継ぎ目で構成されているということですね。ということは、社会的な制度が破綻すれば、存在者は「非‐在」に、あるいはさまざまな形をとる社会的死に脅かされる、ということでもあります。これを社会的存在論と呼んでもいいでしょう。しかし、社会制度への依存やそれに対する傷つきやすさの諸様態は変わっていくでしょうから、「存在論の水準だけで」の記述=境界画定はありえないでしょう。

 【Books and Ideas】『戦争の枠組み』では、「生きるに値する生」の具体的な社会的・政治的諸条件を探究しておられましたね。最初に基本的に必要なもの、たとえば保護を求める必要や人間関係の社会的ネットワークに所属することの必要性に言及していました。またあなたは労働のネットワークに含まれることの必要性にも触れていました。わたしたちは、あなたの思索活動における労働のしめる場所とその役割についてもっと知りたいのです。労働は主体にとって「生きるに値する生」と承認の構造の必要条件なのでしょうか? それとも、仕事はもっと刹那的なもの、個人にとって日々生活するために必要なものなのであって、個人の存在を象徴する構造ではないのでしょうか?

 【バトラー】労働は人格の再生産にとって欠かせないものだ、というのは明らかです。私はこれをマルクスの生産[様式]の理論、『ドイツ・イデオロギー』から拝借しましたが、それは今も私の思考の中心にあります。労働は物質的存在の諸条件、そして物質的な生を続けていくための諸条件を生産するためにも欠かせません。だからたとえば、私は「働く権利」に賛成ですし、[地球の]住人たちが働けるときに働くための諸条件を提供するのは各国政府の公的な義務だと思います。私は働く人々だけが食べ物や雨露を凌げる場所を得るに値すると主張する、件のプロテスタント資本主義のあり方には異議を唱えます。なぜなら、私はそうした基本的人権は、個々人が偶さか仕事に就けているかどうかなどにはかかわらず尊重されるべきだと思っていますから。だから私は、労働だけが人間の生を再生産する物質的条件を提供する、と言うようなことは断じて拒否します。それは煎じつめればなにかしらの道徳的な位置取りということになるでしょうか。その位置取りは、数例を挙げれば、雨露を凌ぐ場所、食べ物、ヘルスケア、教育の提供に公共機関が一切の義務を負うことについて議論を巻き起こすでしょう。
 誘発された脆弱さの諸形式について話すなら、労働の組織化について話すことになるでしょう。労働の組織化は、きまぐれな雇用、労働者たちが相互に交換可能であるということ、労働する住民が使い捨てにされるかもしれないことを当てにしています。そうした脆弱さの諸形式は、戦術的に「融通無碍な」労働力を所有するために生産されたものであり、そうした労働力は労働者間にあまねく不安定さや絶望を生産するのです。それはまたあらゆる先行きの感覚を損なうようなやり方ですし、また仕事の見通しが立たないような人々にとっては未来永劫続く負債の構造を生産するようなやり方でもあります。


諸規範に働きかけること

 
 【Books and Ideas】あなたの研究は、人々が意識することなく規範として働いているもの――主としてジェンダ――の覆いを外すことに集中してきましたね。フーコー流のアプローチと比較することができるような方法で、あなたは規範の「字義化」[あそびのなさ]、あるいは規範の自然化といえるような諸現象の正体解明を追究してこられました。今日、権力分析の一環として、あなたはひとつの規範となるようなアプローチを練り上げ、しかるべく社会批評の視座を採用している。しかし、社会批評は[批評するものが社会の]外部に位置しているということを含み持っています。社会批評においては、外部の位置から現実の状態は評価されることになりますが、その部外者的な位置取りはあなたがこれまでしばしば問題含みだとして弾劾してきたものでもありました。どうしてあなたはご自身の[権力]分析の規範となるような次元[社会批評]にフォーカスするようになったのでしょうか?

 【バトラー】フーコーはいつも私の思考の一部をなしてきましたし、それは今でも当たっています。しかし、私はフーコーに、教会の教義に従うようにして従っているわけではありません。私は彼の例外的な仕事を新しい目的に養子縁組していますし、おそらく彼はこの応用が他の思想家たちにもできることを私に知らしめた思想家の一人でした。とにかく、ジェンダーの行為遂行性の分析はいつでも、どのようにして、いくつかの行為が「本物」だと看做され、他の行為が「本物ではない」と看做されるのか、を示すことと関連していました。私はそうした線引きに沿ったジェンダーの生産に反駁しました。そして最も「規範的」で「もっともらしい」ジェンダーの現われ[呈示]は、たとえば慣習上、秩序逸脱的で信じがたいと看做されたジェンダーの現れと同じような、模倣のメカニズムを下敷きとしていました。だから「規範的なもの」の理念は二度生起するのです。第一に、先ほどあなたが示唆されたように、異性愛規範性での場合と同様、規範性は正常化と字義化の過程[線引きの基準]を書き出します。しかし第二に、規範の枠づけ[線引き基準への模倣的な当て嵌め]があり、その枠づけは、現実的なものと非現実的なもののあいだにあった区別そのもの[規範性]に疑義を差し挟み、それをずらそうとするのです。私が嘆かれうる生とそうではない生について話せば、このことは重ねて理解できます。規範性と規範の枠づけが、LGBTQ[レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダークィア]の政治学についての私の仕事を、戦争についての最近の私の仕事と結んでいるのです。私の見解では、ある生がより現実的でより生き生きとしていて、別の生がそれより本物らしさに欠ける、あるいはやや生き生きしていない、などと看做すのは間違っています。これこそが、[地球の]住民の確立された規範への順応度に応じてなされる「現実性」の差別的な配分を記述し、評価する方法です。またこういった批判は、規範となる新たな諸体系を生産しようとする努力でもあるのです。その生産は、相互依存、平等、さらにはラディカルな民主制にまで色づけされた[まだ見ぬ]社会・政治世界をしっかり腰を据えて分節=接合化しつつ、女嫌い、ホモフォビア、人種主義の徹底した批判を伴うものとなるでしょう。

 【Books and Ideas】アメリカ合衆国では、バラク・オバマが近年、ゲイの結婚に賛意を表してきました。フランスでは、新大統領のフランソワ・ホランドが、同性愛のカップルに対する結婚や養子縁組の権利の門戸を開くことに賛成している、と発言しました。同性婚カップルの政治的承認は長きにわたり議論の的となってきましたが、その議論に同性愛が規範に回収されていく過程を見ていた向きもありましたね。こうした案[同性愛の承認]が現れるのは、ホモナショナリズム[同性愛者とアメリカ・ナショナリズムの馴れ合い・共犯]*1や人種関係における性的問題の道具的[おためごかしとしての]利用、また諸文明の衝突のレトリックといったものが、性の政治の重要な争点であるようなときでもあります。このようなアメリカやヨーロッパにおける左寄りの政府の位置どりをあなたはどのように分析するのでしょう? そこでの政治的な争点はなんでしょうか?

 【バトラー】アメリカでの同性婚を擁護する立場は、ゲイの生の内部に新しい規範性をしきりに確立しようするものでありました。つまり、ふたり一組の生活、資産、ブルジョワの自由に加わってくるゲイやレズビアンには、公的な承認を報酬として与えるのです。ゲイの結婚に賛成する必要はあるし、私だって賛成です。しかし、私が懸念しているのは、ゲイの結婚がその他の政治的目標以上に重要なものになってきているその趨勢です。ゲイの結婚の他にも、トランスジェンダーの人々が暴力から、なかんずく警察の暴力から保護される権利、アウトリーチ[細部まで行き届いた地域密着的な活動]と治療双方を含む継続的なHIV教育、カップルのかたちに収まらないまま年老いていくLGBTQの人々のための社会的制度、人口に膾炙している結婚の規範には同調しないラディカルな性政治などがあるのです。もちろん、ゲイやレズビアンの人々が権利行使を選択するのであれば、こうした権利を持つことはいいことです。 それとこれはまったく別問題ですが、結婚しているかどうかや性的な指向の別にかかわらず、養子縁組や生殖テクノロジーにアクセスする人は誰であれ、私が断固として味方しますよ。こうしたことは差別に反対する上で基本となる方法ですので、私は支持します。政府のなかには戦術的にそのような権利[同性婚]を公約として掲げるその裏で、移民の権利を拒否したり、あるいはムスリムの住人たちに対して文化的・物質的な戦争を仕掛けたりしているところがある、というのも真実です。そしてこれが、性を利用したおためごかし[ピンク・ウォッシング]やホモナショナリズムについての法外なまでに重要な一連の論争の引き金となったのです。大事なのは、一方のマイノリティの権利闘争が、別のマイノリティから権利を奪うために利用されないようはっきりさせることです。つまり、LGBTQの権利を守る闘争をしなければならないのはまったくその通りだけども、社会的・経済的正義のための闘争の文脈でもそうする必要がある、ということです。だからつまるところ、我々の政治的主張をそれより広範に渡る共闘や正義への義務に反して利用するようなやり口についてよく考えることです。


相互依存の政治学


 【Books and Ideas】『国家を歌うのは誰か』で、あなたは生と政治の関係性について問いかけ、国民や国家とはまた別の帰属の形態を想像する必要性を説いていました。ジョルジョ・アガンベンの著作を議論する際、彼が難民、あるいは戦闘的な主体性を理解させようとしているわけではないという事実をあなたは強調していました。この権力の新しい分析学は、究極的には主権の概念の再考を命ずるものです。「新しい主権の地図」を提案するわけですね。主権の概念に話を戻していただいてもよろしいでしょうか?

 【バトラー】私は本当は主権の理論家ではありませんので、あなたの問いにうまく答えられるかわかりません。政治学は複雑な領域ですし、私の視野に直接的には入らない諸概念について立派に思考しているたくさんの他の思想家たちを私は頼りにしています。はっきりと、それは限界です。しかし賭けてもいいですが、私たちにはそれぞれそのような限界があるのです。先ほどの脈絡[アガンベンの話]で私が言おうとしていたのは、難民状態にある人々、つまり国境のキャンプで暮らしていたり、占領下に暮らしていたりする人々は、「剥き出しの生」のようなかたちでは必ずしもうまく記述できないような、政治的な行為体や抵抗の形態に与している、ということだったと思います。私見ですが、そのような生[剥き出しの生]は、ポリスから除外されていたとしても権力に縫合されている。そして彼らが生きる権力の場は確かに隷従を強いるような場だが、しかし隷従は本質的属性でも網羅的な属性でもない、というのが私見です。われわれには、配慮のネットワーク、政治的動員の実践、それに抵抗の諸形式がこれら[権力]の場にあるのがわかります。だからわれわれは、在るもの[権力]と起こっていること[生のありかた]との振れ幅を肯定するような権力のモデルについて考える必要があるのです。国家は国民に関していつもいつも「主権」権力で振る舞うわけではありません。というのも、主権性はある程度統治性を通じて拡散してきているからです。ハンナ・アレントの連邦制の理念(彼女がパレスチナを擁護して提案したような理念)は根本的に主権の諸効果の配分次第であることも、私は示唆してきました。私が危惧しているのは、剥き出しの生の領域に対する主権性の中央集権的権力を大げさに表現するような立場です。[中央集権的権力という見方]はおそらくロマンティックで大変魅力ではあるでしょうが、主権の現代的な編成、あるいはポリスの内部で蟄居する人々やその国境から排斥されている人々の外部にある政治的縫合や行為体の諸様態といったものを理解する助けにはなりません。とはいえ、アガンベンによる「見棄てられた」というような生の理解は、生の脆弱さに曝されている住人たちのことを思考する上でとても有効だと思います。たとえ、それが彼の語彙ではなかったとしてもですね。

 【Books and Ideas】あなたの仕事は、今、政治的な領域において情動がもつたいへん独特な性質に注目していますね。たとえば、アブ・グレイブ収容所のイメージの研究がそうですね。いくつかの最近の研究は、羞恥、忌避、厭わしさといった情動の政治的な次元を明らかにしてきました。またそれによって、わたしたちの権力関係の考え方も刷新されてきましたね。一見すると、前向きな情動――スピノザなら「悲しい」と言いそうなものとは異なる情動――はめったに分析されないし、定義もされないようです。喜ばしい情動に政治的な次元はあるのでしょうか? あなたの新たな権力の分析学ではそうした喜ばしい情動はどのような場所を占めるのでしょうか? 

 【バトラー】私は実際に「剥奪」のようなことについて、路上デモで起こる「恍惚=脱自」についてさえ話したことがあります。それに私は単に搾取に通じるのではなく、生きるに値すると思わせてくれる情熱とも一脈相通ずる傷つきやすさの形式にも関心があります。ブルジョワ的結婚の形態に反駁しながら、私はまだ辛抱強く規制の緩やかなセクシュアリティの領域を待ち望んでいます。

 【Books and Ideas】オズボーンとシーガルとのインタヴュー、「パフォーマンスとしてのジェンダー」で、あなたはご自身のユダヤアイデンティティに触れ、「私のなかでイスラエル国家に目を開かせる痛みと羞恥」に関連したユダヤ人性の件について書くことができないことにも言及していました。イスラエルパレスチナ紛争が、あなたの最近の著作物では、権力と主権の関係の理解を助ける例証となる情勢として登場していますね。あなたの最新刊、『分岐路』はユダヤ人性の問いに捧げられています。なにがこの問いにあなたを立ち返らせたのですか?それは政治的な義務なのでしょうか?

 【バトラー】私はとても濃いユダヤ的な環境の出身ですから、私にとってこの本は自分の来し方を振り返り、私が受けた薫陶を斟酌し、私に施されたシオニスト教育を批判的に評価する上で必要な仕事をするための取り組みでした。私はシオニズム批判を数十年にわたって続けてきましたが、批判するのは主に比較的私的な談話会等で時たまのことでした。しかし、9・11後の公的な議論によって、私はこの問題に係わるもっと公的な言説へと参入せざるを得なくなったように思われます。私としてみれば、私が薫陶を受けたユダヤ的価値のいくらか、すなわち、公に他の人たちと共に悼むことの意味、生の儚さとそれゆえの生の価値、非‐暴力闘争、といったものすべてが勝手に、より一般的な議論への道を、現代の政治的シオニズムに反駁する議論への道さえ切り開いていったようなものです。だから私はイスラエル国家に反対する人はユダヤ人であることを放棄しなければならない、とは思いませんし、イスラエルを批判する人がめくら滅法、反ユダヤ的、ユダヤ排斥主義的である、とは思いません(時には当てはまることもあるのですが)。私の[著書の]目的は、私の人格形成過程を活用して、非‐ユダヤ人と共にユダヤ人の倫理的・政治的生を肯定するような位置取りを詳しく考える[の包みを解くこと]ことです。そういう位置取りは、ディアスポラ的な位置取りでしょうね、確かに。でも、エドワード・サイードのあとに続いて私が考えるディアスポラ的な立場は、パレスチナにおけるラディカルな民主主義的政体について考えるための出発点としては有効でしょう。

 【Books and Ideas】 ジェンダーについてのあなたの著作では、精神分析は、さまざまなジェンダーアイデンティティを規範に則って概念化している点とその女性たちの表象[のまずさ]という点から批判されていました。しかし精神分析は、主体が生まれるまでの過程の心的次元と主体の傷つきやすさについて考えるために必要不可欠なものでもありました。たとえば、オズボーンとシーガルとのインタヴュー、「パフォーマンスとしてのジェンダー」で、 あなたはこのひとつめの精神分析の活用を議論していました。今日、権力や脆弱さについてのあなたの省察には、殊に悼み/嘆きのプロセスを通じた精神分析へのなみなみならぬ参照がいつも見られます。今日、政治について思考する際、精神分析理論のうち、何があなたにとって欠かせないものとなっているのでしょうか? 

 【バトラー】私の考えですが、われわれは国家や公的機関が人間存在の相互依存を「否認する」方法と理由とを理解するためのさまざまな方策を見出さなければなりません。それに、多くのリベラルな人たちが依存そのものを「手に負えない」理念だと看做す理由についてもですね。ふつう、依存は植民地的かつ父権温情主義的な政治の信念に服して用いられますが、相互‐依存は平等を仄めかします。私にとって、[他の人に対する]欲求のない自律的な主体、つまり別の人に食べさせてもらったり育てられたりしたことのない主体というのは、随分疑わしい主体理念です。主体の自己防衛は社会的な絆を壊し、否定や破壊を通じて守られうるというだけのことです。こんなことのために人は精神分析を必要としますが、おそらくヘーゲルも必要でしょうね。同様に、滅ぼされた住人たちが嘆かれるどころか「付随的被害」というような用語で呼ばれるなら、そこにあるのは暴力と損失の二重否定でしょうが、その否定こそ暴きたて立ち向かう必要があるものなのです。

 【Books and Ideas】研究を通じて、あなたは常に、生の一部でありながら同時に生を脆弱なものにもする相互依存性を見極めようとしていますね。この相互主観的かつ社会的な主体性の枠組みは、あなたとヘーゲルとの関係と無関係ではない、つまりヘーゲルは(あなたは Sois mon corps*2で指摘していますが)他の誰にもまして、主体に意味を与える全体や共同体というものと主体とが構成的に結ばれていることを肝に銘じ続けてくれます。そうした社会的な枠組みの外で主体性について思考することはできるでしょうか? たとえば、自己自身との倫理的で孤独な関係は可能なのでしょうか?

 【バトラー】確かに、自己が自己自身ととりもつ関係はあります。しかし、そういうまったくのひとりぼっちの自己が自己自身を省みようとする時、あるいは自己自身を気遣う時でさえ、当の自己が書き下ろしたことなどない、ひとまとまりのしきたり、用語、規範を自己は用いているのです。こうしたものが言語、そしてより広くとれば私たちみなを形成する社会的意味作用の領域から私たちにやってくるものなのです。自己を反省し始める際、われわれはそうした社会的な形成過程を脱ぎ捨てるわけではありません。[社会的な形成過程という旧套]は、われわれの思考の裂け目たちのなかに、さらにはあるべき「自己」なるものの理念のなかにさえあるのです。だから頭の中で孤絶していても、あるいはたとえ物理的にひとりぼっちであっても、たとえ交通の音が聞こえなくても、たとえ他の人が誰ひとり視界に入らなくても、それでも[私たちに]生を吹き込んでやまない社会の痕跡は、われわれとわれわれの自己とのもっとも親密な関係を媒介しているのです。

by Claire Pagès & Mathieu Trachman [29-11-2012]


Further reading
With Elizabeth Weed, The Question of gender: Joan W. Scott’s critical feminism, Indiana University Press, 2011.
The Power of Religion in the Public, Columbia University Press, 2011.
Frames of War: When Is Life Grievable?, Verso, 2009.
With Talal Asad and Saba Mahmood and Wendy Brown, Is Critique Secular?: Blasphemy, Injury, and Free Speech, University of California Press, 2009.
With Gayatri Chakravorty Spivak, Who Sings the Nation-State?: Language, Politics, Belonging, Seagull Books, 2007.
Giving an Account of Oneself, Fordham University Press, 2005.
Undoing Gender, Routledge, 2004.
Precarious Life: The Powers of Mourning and Violence, Verso, 2004.
Antigone’s Claim: Kinship between Life and Death, Columbia University Press, 2000.
With Ernesto Laclau and Slavoj Zizek, Contingency, Hegemony, Universality: Contemporary Dialogues on the Left, Verso, 2000.
Excitable Speech: A Politics of the Performative, Routledge, 1997.
The Psychic Life of Power: Theories of Subjection, Stanford University Press, Stanford, 1997.
Bodies that Matter: On the Discursive Limits of ’Sex’, Routledge, London, New York, 1993.
Subjects of Desire: Hegelian Reflections in Twentieth-Century France, Columbia University Press, 1987.