ドゥルーズ『差異と反復』

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

 かれこれ三か月に渡って断続的に読んでいたが、ようやく読了。
 ドゥルーズ関連は、千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)千のプラトー 下---資本主義と分裂症 (河出文庫)アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)襞―ライプニッツとバロックカントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)マゾッホとサド (晶文社クラシックス)あたりをこれまで読んできたが、この『差異と反復』がもっとも難解で、しかし一、二を争うほどおもしろかった。
 テーマは表象(representation)批判。概念の枠組みに嵌るように繰り返される表象のメカニズムを突き崩してしまう根源的な差異と反復の理念について書かれている。こうしたテーマ系は、他の著書でも手を変え品を変え変奏されているので、こまごまと触れるには及ばないだろうと思う。
 先日、翻訳をアップしたマラブーバディウもそうだが、ドゥルーズの根源的な差異の理念は各方面から批判を浴びている。しかしながら、細部では齟齬は見られるものの、マラブーバディウがそれほどドゥルーズから離れているようにはわたしには思えない。とりわけ、マラブーの可塑性の理論は、個の単独性と普遍性をフラクタルな構造の関係の裡に両立させながらも、個と個のあいだの違いを明確に語れないという蹉跌において、単独性と普遍性、そのどちらともを手放してしまう危うさを孕んでいる。差異がいかに原理主義的に映ろうとも、カントの判断力批判ニーチェのラディカルな読解によって先鋭化させ、プラトン由来のイデア論を批判する本書は、未だ涸れぬ思考の源泉であるように思う。
 本書を読みながら気づいたことをいくつか。
 まずはニーチェの≪永遠回帰≫。単線的な進化の語りに対抗する循環的な語りとして永遠回帰を読むのではなく、決して感覚できない潜在性(virtuality)を現実化(actualization)していく運動*1、つまり≪発生≫の運動原理としてドゥルーズは読んでいる。つまり回帰とは、同一のものへの回帰を指すのではなく、根源的な差異への回帰を指す。差異と反復は、まずもってニーチェ永遠回帰を同一性の論理から切り離す理念であり、翻って永遠回帰こそが差異と反復を根源に据える唯一無二の理念として本書に君臨している。
 次いで≪感覚されるべきもの≫について。感覚したものを認識するカント由来のメカニズムは、同一性の論理に縛られている。その論理の破綻を厭わず、差異を概念の枠組みに加えるのが美的判断の相だが、ドゥルーズの場合は、あらゆる認識が美的判断の相に披かれているように思う。というのも、差異と骨がらみとなった反復こそが究極の理念である以上、理性理念によって規定を受けるあらゆる悟性の認識、感性の経験もまた、予め差異と反復を軸に構成されていることになるだろうからだ。従って原理上、悟性主導の認識は、差異と反復によって無限化された理念のメカニズムを反映せざるをえない。ごく日常的な認識であっても「復習」や予測できる「予習」(再認 recognition)には留まりえず、常に≪感覚されるべきもの≫という非=知や出会いの次元に脅かされることになる。このようにカントの美的判断の次元を日常へ普遍化するのが本書の特徴であり、同時にそれこそが生成変化の理論への里程標となっているように思う。
 感覚されるべきものへの思考、ありていにいえば感覚できるものに対する違和感は、「おのれ自身を前提とするような思考のイマージュの破壊」(372 上)を内包している。良識(good sense)や共通感覚(common sense)といった一致を前提とした再認の思考からの逸脱(逆行、反=感覚・意味 para-sense)、それこそがドゥルーズにとって思考することの意義だ。従って、構想力(imagination)は図式や綜合によって感性と悟性のあいだの調和を図るのではなく、むしろ差異の理性理念と密に連絡し、思考の無能さを再現=表象の不可能性によって呈示して、その潜勢力は最大化される。このように、美的判断における崇高に相当する「思考のイマージュの破壊」が、思考を可能性へと披く出会いの、出来事の思考として真正化されている。
 出会いの思考・出来事の思考を妨げているものが≪暗き先触れ≫だ。

雷は、あい異なる強度のあいだで炸裂するのだが、ただしその雷の現れる前に、見えない、感じられない≪暗き先触れ≫が先行しており、これがあらかじめ、雷の走るべき反転した道筋を、まるでくぼみの状態で示すように決定するのである。(320 上)

同一性と類似は、もはや、避けがたい錯覚、すなわち反省概念――差異を表象=再現前化のいくらかのカテゴリー(同一性、類似など)から出発して思考するというわたしたちに染みついた習慣の所以である反省概念――でしかないだろう。しかし、もしそのようなことにでもなるなら、それは、見えない先触れが、おのれ自身とおのれの働きかけを隠し、同時に差異の真の本性としての即時を隠しているからである。(321 上)

 表象は、本来あるべき差異を隠し、同時にそのメカニズムが差異を隠している表象行為の痕跡さえも隠すもの、という理解でいいだろうか。今ではほぼ常套句となっているこの手の表象批判に先鞭をつけたのはこの『差異と反復』だ。しかしここで重要なのは、≪暗き先触れ≫が隠しているのが「あい異なる強度」であり、その強度の差異こそが「差異の真の本性」だという点だろう。裏返せば、出会いの思考をしるしづけるものは、強度の差異だということでもある。
 強度(intension)とは何か。『千のプラトー』その他にも頻出するドゥルーズを代表するタームのひとつでもある強度からは、つい流体的なエネルギーのようなものを雑駁と想像してしまいがちだし、強度というからには強いほうがいいのだろうとか、速ければいいのだろう、というような誤解が生じやすい。しかし強度とセットになるのは、外延や広がりを意味するextensionだ。したがってintensionはまずもって論理学の用語、「内包」として理解すべきだろう。そうすると、intensionと含意=巻き込みimplication、との繋がりがよく見えてくるだろうし、pli=襞が含まれているところからそれがライプニッツ論まで射程に含んでいることがわかる。同時に、extensionは説明=繰り広げexplication、ひいては説明=開示explanation(plan=平面)ともその係累を同じくしている。もちろん、強度intensionは欲動や脱領土化などなどと関係するエネルギーの語感を持っている。しかし巻き込みや褶曲こそ、第一に強度という言語がもつ特性である。特に下巻292において、perplication, complication, implication, explication, replicationと続くが、これは単なる連想ではなく、intensionに内包された、折り畳まれた言葉の、ひいては襞(pli)の思考の可能性だ。感覚されえないもの、感覚不可能なもの、感覚させるもの、思考に強制させる差異としての強度は、言語に内包された汲めど尽きぬ可能性であり、また汲みつくせないという意味において言語の不可能性でもある(183 下)。従って、強度はまずドゥルーズ言語哲学として構想されたものと考えた方がいい、とわたしは思う。
 強度はまず内包、ということを理解すると「奥行き」(profondeur、英語にするならわたしならprofundity)も言語哲学の一種だということになるだろうか。profoundnessないしはdepthと訳す他ない奥行きだが、それは長さや幅、高さに類する深さを示す言葉ではない。わたしが思うに、奥行きは強度、ひいては思考が秘めている可能性を包んでいる。つまりドゥルーズの差異の哲学においては、perplication, complication・・・の件のように、思考は単一の概念に従属することなく、未だ思考されざるものを折り畳んでいる。

なるほどどのようなおくゆきも縦の次元になる可能性をもっているし、また横の次元になる可能性をもっている。しかし、その可能性が実現されるのは、ひとりの観察者が、見る場所を変えることによって、自分から見て縦といえるものと、他者から見て縦といえるものを、ひとつの抽象的な概念のもとで統合するかぎりのことでしかない。(163-64 下)

物事がどう見えるか、ということは、見るものの視点、どう捉えるかという概念次第。ドゥルーズは概念に従属した高さや幅、深さといったものの見方をここで批判している。翻って「奥行き」は、どのようにでも見える可能性の広がり、巻き込みの強度=内包それ自体を指している。*2
 とまれ、この程度で『差異と反復』を汲みつくしたことにはならないけれども、わたしにとっては収穫があった。殊に、「強度」・「奥行き」という発想は、まったく深さがないもの、平滑平面のような平面や表面にさえ強度=内包を認めることになるだろうから。
 わたしたちはまったく深みのない世界に生きている。隠れようがないところに生きているのかもしれないが、すっかり見えなくなるほど巻き込まれている。

*1:可能性possiblity/実在性realityの軸とは異なる。たとえば118 下。実在化が目に見えるものにする、使えるようにする、概念化するというようなものを意味するのに対し、現実化は差異の原理に力を与える、ウィルスソフトのactivationのようなものではないか、とわたしは思う。

*2:「無底」も同様だと思う。