『文学とは何か』とは何か?

今日も雨。断じてここは長崎ではない。

みのもんたが紅白の司会。どこに行くのだ、みのもんた。あんまり仕事やりすぎると質が落ちるぞ。「朝ズバッ」は全然「ズバッ」ではない。完全に惰性だ。おそろしくいい加減なことを言い連ねている。一日三時間の睡眠時間。一日五時間の生放送。長生きしないぞ。

松井秀喜が4年62億で更改。毎回一発サインでここまで来た松井が、ごねるのを始めてみた。表向きには自分の評価がどれほどのものか確かめてみたい、というものだが真意はどうだろう。もちろん、彼は金の亡者ではない。独身だし、ブランドとかにも興味はなさそう。別にお金に固執したわけではなさそうだ。なんだろう、やっぱり31という年齢がそうさせるのか。もしかしたら、これは最後の契約になるかもしれない。怪我とは無縁だった鉄人松井も、最近ではちょくちょくどこか痛めている。そんな危機感が最後のチームになるかもしれないヤンキースに、自分の存在価値を確かめてみたかった、というのなら分かる気もする。あと、やっぱり野球好きの松井のこと、野茂ベースボールクラブみたいなことを考えているのかもしれない。ボランティア活動の充実とか。もっとも、ストーブ・リーグの話題もいいが、見る側としてはもっとホームランが見たい。

NumberのWeb版でちょくちょく記事を載せている丸井乙生(まるいいつき)という女性記者がいる。ネット上では結構「萌え〜」らしいのだが、私にはそんなことはどうでもいい。彼女の書く文章がただ単に素晴らしいのだ。彼女はプロレス担当。以前はスポニチ(今もか?)の記者だったようだ。さすがに大ファンの橋本真也が死去したときは若干トーンダウン気味だったが、丸井さんのウリはそのそこぬけの明るさ。とにかくテンポがいい。プロレスの魅力(基本はフリークショーなんだな)を余すことなく伝えている。エッセーなら、こういう独特の文章がないと飯が食えないのだろう。

新版 文学とは何か―現代批評理論への招待

新版 文学とは何か―現代批評理論への招待

思い出したように、『文学とは何か』(新版)を読む。かつて、M1ぐらいだっただろうか、多くの文学批評を志すものが誰でも一度は通る道を、私も例に漏れず通った。平坦な道を通る前に、メロス並みの健脚でも根を上げそうな『政治的無意識』という急坂を登ろうとして後ろ向きに転がり落ちたのはご愛嬌。『文学とは何か』は、全治三ヶ月の重傷を負った私を、それが謳う誘い文句通り「入門書」(an introduction)として優しく手ほどきしてくれた。
 この本が「入門書」として優れているのは、何も複雑に入り乱れた批評用語を念入りに年代順、カテゴリー別に配置して、その咀嚼を助けるから、というだけではない。文学初心者に最も大事なのは、そうした技術的な側面ではなく、もっと理念的な部分、そう表題通り、「文学とは何か」ということなのだ。文学初心者は、先生の話すことをとかく絶対化してしまう。だって、偉いんだもん。先生だけならいいが、あらゆる批評家に忠誠を誓い始めると、もう止まらない。瞬く間に、文学初心者はプロになる。ただし、文学(制度)を疑うことを知らないことにかけては、という但し書きが付く。著者イーグルトンは、そんな安定した「文学」なる地盤をやすやすとよこしはしない。「文学」は「濫喩」(catachresis)だからだ。
フィクション/現実、芸術/まがい物、高級文化/低俗文化などなど、「文学」を定義しようとするやり方は無数にあるけれど、イーグルトンはそれらが全て水泡に帰す運命にあることをそれこそ偏執狂的な筆致で描き出す(イーグルトンはとにかくくっ付いたら離れない学者だ。最近の著作の読みにくさは、皮肉が過剰に利いた文体の問題もあるが、彼の完璧主義で懐疑主義的な姿勢も大いに関係があるだろう。)。文学は、どこまでいっても「ブンガク」的な捉えどころのない違和感たっぷりの「亡霊」として現れる。イーグルトンは、文学を確固とした制度ではなく、あくまでも括弧つきの「ブンガク」として、つまり「文学とはなにか」と疑い続ける漂流の作法として、文学初心者に突きつけるのである。だから、厳密には『文学とは何か』は決して「入門書」とはいえない。全然、答えをくれないのだから。むしろこの本は、長い長い「序文」(introduction)として、あるいは長い長い批評人生の「序の口」、「登竜門」として、初心者の長い長い苦悩の日々を保証するのだ。
しかし、イーグルトンは「文学とはなにか」という問題に対しては答えてくれなくとも、文学批評の方法については一定の答えをくれる。ロシア・フォルマリズム、新批評、構造主義現象学受容理論ポスト構造主義精神分析批評といった批評の前史をイデオロギー批評的に批判する長い長い「序文」を経て、イーグルトンは「結論」において「政治的批評」の可能性を論じる。曰く、批評の前史はイデオロギーに対して無自覚であった。批評理論自体、イデオロギーと化す危険を孕んだものである。ゆえに、我々はイデオロギーを意識しなければならない。文学系諸学科は、国家のイデオロギー装置であるが、我々すべてがイデオロギーに包摂されているわけではない。目覚めよ、文学理論を捨てて、政治意識を持て!云々。こうしたイーグルトンの主張に、マルクスの『共産党宣言』を重ねる行為はおそらく正しい。それに、ここまでのイーグルトンの論自体が、資本主義社会を自明視した欧米の只中で、抵抗の拠点を見出し、民衆の政治意識高揚を訴え続けたマルクスの姿にぴったりはまる。ただ、労働の価値やモノの価値を絶対視したマルクスとは違って、イーグルトンはテクストの記号内容を絶対視したりはしない。イーグルトンはアルチュセールを経由しているから、下部構造決定論シンパではないのだ。しかし、それでもイーグルトンの「政治的批評」は、マルクスと同じではないにしても、マルクス主義と同じ運命を辿る。
新版に付された「文学理論の現在」と題されたあとがきには、イーグルトンの孤高の批評人生に漂うある種の哀愁みたいなものが伺えて、なんだか切ない気分になる。これは自分に向けた「ブルーズ」なのか。1982年というモメントにおいて、イーグルトンの敵はデリダ、正確にはデリダシンパの脱構築主義者だった。イエール学派(巽の言葉を借りれば、「マフィア」)を始めとする脱構築主義者は、脱構築を批評に用いながら、脱構築批評を続けることで脱構築批評を脱構築し続け、完全に批評を自己目的化した。この非政治化はレーガニズムと連動して、脱政治的なイデオロギーという自家撞着の陥穽に批評を突き落す、とは時期を同じくして脱構築を批判していたサイードだが、まさにイーグルトンの『文学とは何か』執筆時点での標的はこの非政治的な脱構築だった。しかし、イーグルトンの「政治的批評」は、その後他にお株を奪われ続ける。イーグルトン以前に存在していたフェミニズム批評、マルクス主義批評、そして後続の新歴史主義、ポストコロニアリズムカルチュラル・スタディーズといった「政治的批評」は、すでに批評史上の不可逆的一大潮流を成している。すでに全てではないが多くの批評家は「政治意識」に目覚めてしまった。イーグルトンの立つ瀬はない。イーグルトンの採るべき道は唯一つ、批判である。
ここでは現存する批評理論がこっぴどく叩かれていく。新歴史主義は現在の政治に関わらないからだめだ、フェミニズムは70年代で終わった、マルクス主義が敵とする大きな物語は終わったから用なしだ、何でもハイブリッドしてしまって全てを包摂しようとするポストコロニアリズムは節操がない、云々。イーグルトンもまた、マルクス主義と同様、終わりなき批判の道を選ぶ。弱点を探し続けること、それこそがイーグルトンの批評家としての存在理由である。従って、厳密には現在のイーグルトンは「メタ批評家」と呼ぶべきかもしれない。理論を批判する。これにかけては、イーグルトンは一級の学者である。しかし、イーグルトンはどこかで普遍的に通用する理論の到来を願ってもいる(最後あたりで)。ただ、それは文学批評の死をも意味する。理論どおりなら、批評する意味なんてないからだ。それでもイーグルトンは批判を続けながら、どこかで「メシア的救済」を願ってやまない。がんばれ、イーグルトン。決して「最終審級」は現れないけれども。だからこそ、イーグルトンにはどこか哀愁が漂うのだ。
いずれにしても、理論を絶対視するような単純思考の人はこれを読んでからにしてほしい。特に第1章は、サバルタンスタディーズの先駆けともいえる制度としての英文学の洗い直しが(やや粗いが)されている。「メタ批評」は重要だ。