もてない男を今ごろ読む

晴れたり曇ったり、なんだか気まぐれな天気。昨日はおでんと鯖のづけを作り、彼女にいたく感動される。しかし、おでんはやや味が濃い過ぎ、鯖の方はごま油が多すぎた。なかなか難しい。今日は日向鶏で煮物。繰り返し失敗して人は学んでいくのだ。

日本対アンゴラ戦をテレビ観戦。非常に疲れていたので、途中で爆睡。シュートが枠に飛んでいたので、ゲーム自体はそれなりに面白かったが、枠に飛んでも枠に当たっちゃだめだろ、とだめだししてみる。決勝ゴールはいつものごとく目撃できず。後でニュースにて確認。ゴールをリアルタイムで見れないのは、いつものこと。なぜか90分見ていても、ゴールだけは見逃してしまう、運のない男なのだ。

書くのを忘れていたが、先日のエリザベス女王杯はびっくりした。オースミハルカは完全に逃げ粘り体勢。鞍上川島も勝利を確信していたことだろう。ところがである。9分9厘からのスイープトウショウの脚は、人知を超えたものだった。オースミが止まったわけではない。止まった、と思わせるほどの豪脚だった。馬の力の違い、といえばそれまでだが、混合G1を制する牝馬はやはり格が違う。3着は復活アドマイヤグルーヴ。やや折り合いを欠いたのが響いたが、うまく乗れば2着はあった。一番人気エアメサイアは、レースの流れに乗れず終い。スタート後に馬群に包まれ、後方を追走。直線、いい脚を使ったが、それでも5着止まり。武豊は、調子のいいときに限って馬の末脚を過信する傾向にある。どうみてもメンバー的に流れが速くはなりそうになかった今回、もっと前目につけるべきではなかったか。それでも、スイープとの差は歴然としているだろうが。一頭だけフェラーリなんてずるいよ、といったところか。

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

小谷野敦もてない男』を今ごろ読む。フェミが男を一斉に叩き、男はみんな抑圧者、というレッテルがどこでもまかり通りそうな住みにくい言論界だが、小谷野は男の中にも抑圧されている者はいるんだ、と抗議の声を上げる。その抑圧者の中の被抑圧者こそが「もてない男」だ。自分の好きな女性には相手にされず、かといって妥協して別の女性で我慢することも潔しとしない、およそ容姿端麗とはいい難いがそれでも自分の理想の高さと戦い続ける、それが「容姿は若干劣るが知的な女性」を追い続ける小谷野敦だ。
 小谷野の議論には二重の仕掛けがある。一つは誰も首肯するだろう、アイデンティティ・ポリティックスである。つまり、小谷野自身が「もてない男」そのものであり、文中にルサンチマンを充填させ、「もてる男」や「恋愛結婚」を規範とする社会に対して抗う「私怨」の男である。『もてない男』を書く「もてない男」は、小谷野自身の拭い去りたい過去を反復し、自己を「もてない男」として反復し、「もてるにはどうしたらいいのか」あの手この手を尽して反復考える。このコンテクストでは、小谷野はただひたすら「もてたい」。と同時に「もてたい」と考えなければならないこと自体おかしいのではないか、と次第に言説批評へと小谷野はベクトルを転換していくのである。
 しかし、この本、「もてない男」の恨みつらみだけか、といえばそうでもないような気がする。小谷野は確かにもてないのだろうし、彼自身上野千鶴子がいうような恋愛に必要なスキルを持たないことにコンプレックスを持っているのも事実なのだろう。だが、そうした「私怨」を晴らしたいだけならば、個人的な体験の羅列で済むはずであり、日本文学を始めとするあの手この手の引用の羅列は必ずしも必要なものではないだろう。私が思うに、この「私怨」は「公怨」でもありうる。つまり、「もてない男」は小谷野自身であると同時に、社会を批判するための戦略的な立場でもある、というわけだ。所詮、フェミニズムは家父長制イデオロギー打倒だのなんだのいっても、インテリ「もて男/女」の剣客商売。刀すら持ってない「もてない」無粋な男となれば、ただひたすら「私怨」をあげつらうのみ。果たして、「もてない男」は言論界のある種の「オシャレ感覚」を批判するための「疑う立場」ともなりえている。
 他方、「もてない男」は、コミュニケーション前提の現代批評に対する「疑う立場」でもありうる。従来の異議申し立て批評は、共感できる、分かり合える、といったコミュニケーション回路の確保が常に前提とされてきた。フェミニズム批評だったら女性の弱い立場、黒人批評だったら黒人の差別される立場、ゲイやレズビアンだったら性的志向の特異さに、それぞれ論者は共感するわけだ。ところが「もてない男」はこうした弱者救済型批評にもとことんもてない。なぜなら小谷野のいう「もてない男」は、コミュニケーションの才能が全くないからである。小谷野が「もてない男」から「努力しないもてない男」を注意深く除いている点は見逃せない。「もてない男」は、一生懸命努力しても分かってもらえないところにミソがある。小谷野は、「もてない男」という「疑う立場」を作り上げることで、誰でも理解できて分かりやすい「みえみえの弱者」を擁護する昨今の批評が、誰にも分かってもらえない「わかりにくい弱者」を隠蔽してしまう点に注意を喚起しているようにも見える。誰にも分かってもらえない弱者なんて、いくら論じたって誰も読まないから無駄無駄。「もてない男」は学者の商売にはならない。「もてない男」は、そんな共感されない弱者を無視する言論界のあり方をひっそり糾弾しているようで面白い。でも、10万部も売れたんだから、ある意味小谷野は「もてる」のではないでしょうか。「みえみえの弱者」について書いた偉い先生の本なんて、せいぜい売れてもその10分の1ぐらいでしょ。言論界でのコミュニケーションはうまくいかなくても、世間でのコミュニケーションは大成功。それでも小谷野は言論界でもてたい。こうして小谷野の「公怨」は、再び「私怨」へと還元されていくのだった。
 
聖母のいない国

聖母のいない国

 少し前に、『聖母のいない国』が『アメリカ文学研究』という「同人誌」で酷評されていて、ここまでいうことはないだろう、と思ったものだったが、思えばその批判もフェミニスト的な感じがした。小谷野は、これからもそういう言論封殺的な弱者批評と戦い続ける「もてない男」でありつづけるのだろう。頑張れ、小谷野。ちなみに小谷野のブログも面白い。