九州上陸!、そしてフォー○ナー(?)

 およそ三ヶ月ぶりに九州上陸。上陸途中、下関で回転寿司を食す。唐戸市場を筆頭に、新鮮な魚介類を流通させる条件が揃った場所だけに、まあまあおいしかった(あんまり流行っている店ではないようで、ネタも小さめ)。久々の九州は、広島(の辺境)と比べると随分暖かい。なんとなく、関門海峡を渡るときに懐かしい感じがするのは私だけだろうか?

 フォー○ナーが長○でセ○ナーを開いてから50年、日本フォー○ナー協会が今年の5月に国際シンポジウムを開催したのは周知の通りだが、このたびその全記録が一冊の本となって上梓された。Hitory and Memory in Faulkner’s Novels(Ikuko Fujihira, et al, eds, Tokyo: Shohakusha)である。日本を代表するフォー○ナー研究者はもとより、海外の代表的な研究者も参加している。全編、英語なので、さすがに売れ行きとなると国内では難しいものがあるだろう(現在amazonにもはまぞうにも登録されていない)。しかし、フォー○ナー研究者のみならず、アメリカ文学を志すものなら一読すべきであろう(定価2800円とリーズナブル)。以下、全ての論文を追う時間も力量も持ち合わせていないので、一本厳選で短評してみたい。
 「記憶と歴史」という最近流行りのテーマを元に集められた論考だが、当然各人ともその捉え方は異なる。論文集ではなく、発表原稿集ゆえの統率の難しさだろうが、ある意味田中久男会長の巻頭論文はその説明責任を全うしている。
包括的で、常に大きな視野を必要とする「歴史」とそれに完全に含めることのできない小さな「記憶」という対立軸を用いてフォー○ナーとその批評を考察する田中論文は、両者を「過去」に対する接近方法として整理しようとしているように見える。ただ、ひと言に「歴史」、あるいは「記憶」といってもかなり幅があるのは否めない。国家や南部、あるいはフォー○ナー個人を引き合いに出す場合、「歴史」と「記憶」の境界はかなり曖昧になる。いや、フォー○ナーの作品自体がその曖昧さを創作上の戦略として用いていると論じ、その曖昧さに関与するQuentinの自殺をフォー○ナー自身が採る戦略の困難さと正当性の表れとして読む田中論文の趣旨を念頭におく場合、この曖昧さはむしろ田中論文の戦略として読むべきか。過去への接近方法として、historiographyとrememoration、あるいはcritical memoryといった概念を並列させる田中論文は、歴史/記憶という対立軸が切り離された形では有効に機能しなくなった近年の批評(用語)上の混乱をも体現しているかのように映る。であるならば、歴史/記憶という二分法を棄却する、よりフォー○ナー的な、あるいは現代批評的な過去への接近法、を捕捉することこそ肝要なのであろう。本論文では、デリダの用語を借りた “spectrology” (「亡霊学」とでも訳せようか)がおそらくその新しい切り口に該当しそうなのだが、ほとんど「亡霊学」は “rememoration” その他の歴史/記憶に関わる用語と混同されているため、あまりアクチュアリティは感じられない。Walter Benn Michealsがいうように、「亡霊」は過去の「痕跡」として存在する。つまり「亡霊」は、「回帰可能な起源」という無邪気な幻想を断ち切る概念であり、と同時にそれでも「痕跡」として残る「斜線を引かれた起源」に執着する概念でもある。記憶や歴史という概念がほとんど相互に弁別不能になり、批評用語として力を失いつつある昨今、「亡霊」は過去との新しい付き合い方を実に明快に提示する。フォー○ナーを読み、またフォー○ナーの読みを読む、田中論文を追う限り、そうした意味での「亡霊学」は曖昧な形ではあるものの達成されているように見える。「亡霊学」をフォー○ナーの戦略として捉えるか、あるいはフォー○ナーを読む側の戦略として捉えるか。田中論文の答えはおそらく前者であろうが、このproceedingを起爆剤に、フォー○ナーの過去に対する戦略、「亡霊学」を、より明快な形で提示されることを望む。しかしこの田中論文は、これからのフォー○ナー研究(主として記憶や歴史といった範疇で)において参照必須の先行研究となることは間違いない。また、私のような門外漢ではなく、フォー○ナー研究の専門家が読んだ場合、当然以上のような難癖は釈迦の手のひらで遊ぶ悪戯猿の戯言に過ぎないであろうことも、併せて付記しておく。