久しぶりに論文を読む 

 在野のさすりびと、会員でもないのに『英文学研究:支部統合号』をざっと読み。電話帳のように分厚い。ウェブ上にpdfファイルでまとめて公開というわけにはいかないだろうか、と思ったりするけど、各支部の特色もあることだし、紙媒体には紙媒体のよさがある。アメ文のほうも統合しちゃえばいいのに、っていうのは外野の無責任な放言か。
 ざっと眺めると、支部間の格差が大きい。投稿数の少ないところ、多いところ。少ないところは、論文の方法論を知らないうんぬんの問題ではなくて、単純に人がいないんだと思う。多少はいたとしても、学内業務に忙殺されて、物理的に査読論文を書いている時間がないとか。それから若手ばかりが投稿する雰囲気ができあがってしまっていて、お年を召された人が投稿しなくなる、というのも看過できない。ちょっとその傾向は視点のヴァラエティに欠ける気がして、前から気になっていた。まあ、一読者の戯言だけども。
 関東支部の「エッセイ」、関西支部の「特別寄稿論文」・「私の一冊」はベテラン研究者にも積極的な参加を促す意味でいい試みだと思うし、実際読んでいておもしろい。あるベテラン先生のエッセイでの、文学史ではなく、文学批評・研究史という切り口は、フレンチ・セオリー ―アメリカにおけるフランス現代思想 (.)も邦訳されていることだし、さまざまな研究動向を歴史化・相対化して論じるにはいい頃合いだと思う。わたし自身、ひとりの作家の研究史だけでもそのときどきの情勢の変化による影響を経験的に見てとることができたので、これを巨視的に展開するのも重要な仕事になるはず。『英語青年』や『PMLA』等まで手を伸ばしていくと膨大な量になりそうだけど、おもしろそう。
 「私の一冊」ウェイン・ブース論もおもしろかった。なにぶん若手研究者が読まなければならない本は思い浮かべるだけで目眩がするほどだろうから、古典にまで手が回らない諸氏には古典の耳学問だけでもありがたいはず。わたしはこういう昔話がわりと好きなので読み耽ってしまう。"usable past"について考えることは、最新の研究動向に目を光らせておくことと同じくらい大事なことだと思う。
 投稿論文では、さすがに身内は除外するとして、ワイルドの講演に芸術家美学と消費者美学の「借用」を認め、両者の関係について考察した論文、サリンジャーの元愛人と娘のメモワールの相互侵襲性、それから"Franny"との関係を分析した論文、The house of Mirth における共同体の問題を、「読むこと」とtableaux vivantsを解釈格子にして分析する論文がおもしろかった。*1おや、関東支部ばかりだ。まあ個人的な嗜好なので寛恕あれ。

*1:先の『英文学研究』では、言語の崇高と『フランケンシュタイン』を扱った論文にビビッときた。