国語というアポリアのなかで思考すること

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

<書き言葉>とは、<テキストブック>に完璧に置き換えられるものから、<テキスト>としてそこへ絶対に戻っていかねばならないものまで、さまざまな形をとって読者の前に立ち現れる。それは、翻訳の可能性と翻訳の不可能性の間のアポリアを指ししめし続ける。(153)

だいぶ前に話題になっていた水村美苗日本語が亡びるとき』をいまごろになって読了。
最後の三分の一は日本語文化の滅亡を危惧するほうへ振れていくが、これはアメリカにまったくなじめずそれでもアメリカ生活を生き延びる上で近代日本文学を生きるよすがとしていた水村の自伝の一部として読むべきだろう。
むしろ議論の要諦をなすのは、普遍語と現地語のあいだで揺れ動く国語という思考のトポスを維持することの必要性だろう。普遍語からの翻訳によって可能になる国語という営みは、現地語としての日本語とも普遍語とも異なる思考を可能にしてくれる。近代との遭遇によって生まれた普遍語でもなければ現地語でもない「国語」のアンビヴァレンスを維持することこそが肝要だということ。だから本書が表現しているのは普遍語(英語)中心主義を前にした諦観でもなければ、日本文化の礼賛でもない。もちろん、日本語の乱れや日本語の消滅でもない。くどいが問題なのは「国語」の消滅、あるいは機能不全だ。
そもそも水村がいう「国語」は、ド・マンの教え子らしく普遍語と現地語とのあいだのコミュニケーションの不成立を前提としたものである以上、純粋な日本語ではない。それは始めから翻訳によって汚染されている。だから水村の議論は、普遍語か、日本語か、というような単純な二者択一ではなく、両者がせめぎあう場である「国語」を維持することに向かう。この議論の龍頭を無視して、亡国論のような響きという蛇尾のほうに反応する水村批判のなかには、日本文化の輸出や日本文学がたくさん翻訳されている状況を挙げるものもあるようだが、それはまったく的を外している。日本文化の輸出に関していえば、水村の議論が《書き言葉》の議論であるということを失念している。それから英語に翻訳された日本文学というのは普遍語文学なのであって、水村の論じる普遍語と現地語のあいだで揺れる「国語」ないし国語文学ではない。この辺は、本書を称賛する某アルファブロガーの方も理解していないようだし(そもそもどんな本でも速読できることを売りにする人間の理解力などその程度のものだが)、「くどい」だのという論難は、繰り返し丁寧に説いているのを安易に読み流して勘所を見過ごす失策を告白しているだけであって論外だろう。
英語ではなく「国語」で考え、書くということの意味をじっくり考えるいいきっかけになった。思考する「国語」をもつ人間が、なぜ思考しないのか。どうすれば「国語」で思考できる人が増えるのか。悩みは深い。