群島=世界論

 外は大雨。ようやく梅雨らしくなった。排水溝は轟々と流れ、それでも行き場をなくした雨水がアスファルトの上で吹きだまる。底の見えていたダムもこれでようやく腹八分ぐらいには戻るはず。渇水はどうやら杞憂に終わりそう。ちょっと雨脚が激しすぎるような気がしなくもないが。
 
 

群島‐世界論

群島‐世界論

 今福龍太、畢生の大著。自宅では開かず、少々重いが、小旅行や外出の折にちょいちょい持ち出し、2ヶ月ほどかけてゆっくり読んだ。一礼二拍一礼後(嘘)、外で読むべき本だと思う。
 フォークナー、ソロー、メルヴィルジョイスといった大波濤はもちろん、文学史上の暗渠に伏流するケルト詩人にカリブの詩人、琉球の作家といった豊かな地下水脈をも掘り起こし、古今東西、清濁併せ呑む豊穣な多島海がここに隆起する。点在する断想が、それぞれの対蹠に向かい呼びかける。声はフーガのように谺し、乾いた大地は潤う。大陸は島の断片として一旦分節され、多島海へと節合される。
 世界文学論にも、近年流行りの普遍性をめぐる哲学談義にも繋がるテクストだろうと思う。しかしもちろん私には、このテクストの全貌を語りうるだけの見識も甲斐性もない。この該博、この射程距離、手に負えない。
 ということで、枠組みの話だけ。
 臭いものには蓋をし、収斂や辻褄を旨とする歴史叙述ではなく、今福は「群島の地図作成法」と呼ぶ方法を用いる。時代によってその図柄を違える複数の地図を相互参照して時代を跨ぎ、また必要とあらば地図を山折り谷折り、空間的懸隔を無化して異空間同士を重ね合わせる。デリダの亡霊論を思わせる時間錯誤anachronism/空間錯誤analocismが梃子となって、歴史は脱-節し、新しい関節を備えた版図が立ち上がる。
 英語やフランス語、ポルトガル語スペイン語ゲール語にまで分け入って読みこなす今福の言語的天賦にはただ驚くばかりだが、多島海の版図を彫心鏤骨、記述する大和言葉のひとつひとつも考え抜かれているように感じた。「汀」は水と陸とが出会う場所を象形として含意し、「膂力」は漂泊の魔力が身体に刷り込まれているような印象を喚起し、「邑」は陸の頚木に繋ぎとめられ、土に囲繞された僻地を想像させる。(気のせいかもしれないが)ひとつひとつ油断がならず、おかげで漢和辞典が手放せなかった。
 疑問がひとつ。己の不見識に由来する愚問だとは承知しているが、島同士の間の権力関係はどうなるんだろう。(対ヤマトではない)琉球諸島内部における支配/被支配の過去に鑑みても、批判すべきは大陸的な思考だけではない。それが大陸的思考の汚染の結果だという結論に落着するとしても、多島海を描くには、島嶼に対する批判的検討もまた必要なのではないか。そして、シマとシマの間に広がる時間や空間の懸隔を飛び越えるときに、時差や気圧の変化、負荷や抵抗を感じる感受性をもつべきではないだろうか。負荷や抵抗のない透明さは、一枚岩的なシマ世界の美化や理想化を思いがけず呼び寄せかねない。
 時に絶海で揉まれ、時に汀をたゆたう、水面で輝く文藻の連帯は眩しい。しかし、海面下に散逸するその反影のなかにこそ、掬い上げるべき胤/種があるのではないか。
 
 

 家の近くに、池とは言わないまでも、いくらかでも水があれば、あなたは気持ち良く暮らせるでしょう。それは、大地を浮かせる水の力を察知するからです。小さな井戸でさえ、覗いて見れば、この大地が大陸ではなく島なのだとわかります。井戸のこの働きには、少なくともバターを冷やすのと同じほどの価値があります。私は川の増水時に、池の向こうのサドバリー草原を丘の頂から望んでいて、蜃気楼なのか、草原が、渦巻く流れに翻弄されるコインのように浮き上がるのを見ました。それ以来、私は、池の向こうに広がる大地の全体が、下を流れる水の薄い層に乗る地殻のように見えます。私が住む乾燥地も、今はたまたま水に浸かっていない土地にすぎません。(ソロー)

花瓶を愛したのちにその破片を寄せ集める愛は、花瓶が完全だったときにその均整をあたりまえのようにして愛でていた感情よりも、強いものである。破片を精巧に組み立てるときの接着剤は、本来のかたちを充填剤のようにして浮かび上がらせる。私たちがアフリカやアジアの断片を寄せ集めるのは、そのような愛によってである(……)。壊れた欠片を寄せ集めるこの行為こそ、アンティル諸島の配慮と痛みであり、もし破片が不揃いでぴったりと合わないなら、それらは元の形よりもさらに強い苦痛を含むことになる(……)。アンティル諸島での創造行為とは、この私たちの粉々に砕かれた歴史の、私たちの語彙の破片の修復のことである。そこで私たちの群島は、元の大陸から引きちぎられた切れ端の同義語となるのである。(デレク・ウォルコット