フランス文学講義

フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書)

フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書)

 「フランス文学講義」と聞くと腰が引けてしまう。敷居が高そう。でも読み終わってみると、最近読んだ本のなかでもっとも心を動かされた一冊になっていた。
 主観や内面、個人が誕生して「おぎゃー」と産声を上げる近代文学、「新しいもの」と「古びたもの」との相克、それらを表現する文章が生み出す「わたし」とリアルなイメージの系譜。本書の骨子はだいたいそういったところだろうか。
 ロマン主義、リアリズム、デカダン、と近代文学の教科書のような構成だが、最後に写真論が入っているのは異色か。目次をみると、どうしてもこの写真論、特にバルトの存在が余剰のように見えてしまうのだけども、実際に読み終えると、この構成は必然だったと気づかされる。
 構成以上に目を惹くのは、議論の細やかさ。ひとりの作家の、ひとつの作品の、ひとつの引用から、その作家と作品の特徴のみならず、時代思潮から歴史的事件まであざやかに剔抉してみせる手際は巧緻の一言。知らず知らず引き込まれていく。
 流れるような本書の文章がわたしに残したしこりは、「想起」の問題だ。
 牢獄のような閉所がそこに過不足なく収まる「わたし」を語ることを可能にし、やがて社会変動を物語るためのピースとして個人は埋没し、その一方で「わたし」は脱臼した時間、アナクロニィのなかにたゆたう。19世紀において微視的(つまり視覚的)「細部」だったものが、のきなみ(アナクロニスティックで)心象的な「強度」へと置き換わっていく20世紀において、主体的とも受動的とも、過去のものとも未来のものとも、にわかには判じ難い想起は、他者と「自分」のあいだに微かな距離を保ちつつ留まり続ける汀のようなものへと「わたし」を誘う。
 「わたし」=汀はスクリーンのようなものかもしれない。そこには他者の(面)影が映し出される。「わたし」はその躰に翳った他者を映し続けることを通じて、「わたし」であり続けるのかもしれない。
 すべてが文字で汚されている時代に、「わたし」はなにかが書き込まれ続ける白紙なのだろうか。文字を書きつけることではなく、「わたし」が他者にとっての白紙であり続けることに幾許かの余地はあるのかもしれない。繋がりや癒着、リンク、そうした既成の「関係を広げる」(皮膚を伸ばす)のではなく、他者の翳を映しこんではたちまち取り逃がしてしまう、スクリーンとしての「わたし」の強度を、のっぺりとした皮膚(=世界)の上で育んでみてはどうだろう。

 ヴァレリーは言う。

「崇高なものが彼らを単純化している。断言してもいい、彼らは次第次第に同じものに向かって思考していくようになる。危機や共通の限界を前にすると彼らはみな平等になるのだ」。(179)

 平等。政治について云々するなら、今こそトクヴィルを読んで「想起」に耽るときだろう。