もろもろ。サボって弁当。筋肉痛はトヨタ的カイゼンを遂げる。
夕食中、テレビチャンピオン「全国銘菓通選手権」。嫁がときどきニアピン賞を獲得するのを見て、甘党一族の血脈の恐ろしさを思い知る。来週は「滝通選手権」。勝手にしやがれ。
- 作者: カルロギンズブルグ,Carlo Ginzburg,上村忠男
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2001/04/17
- メディア: 単行本
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歴史史料にはすべて真実が書いてあるとみる古典的歴史学に待ったをかけたのが、ヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー』(あるいはロラン・バルト)。ホワイトは、歴史は全て物語り、あるいはレトリックに還元できるものとみなし、古典的実証主義を批判した*1。ギンズブルグの立場は、物語論と古典的実証主義の中間に位置する。
資料は実証主義者たちが信じているように開かれた窓でもなければ、懐疑論者たちが主張するように視界を妨げる壁でもない。いってみれば、それは歪んだガラスにたとえることができるのだ。(48)
「開かれた窓」、「壁」、「歪んだガラス」といった比喩が示しているのは、歴史史料と現実との関係である。「窓」のように外界の光を満遍なく部屋の内部に引き込むものでもなければ、「壁」のように外界との接触を予め禁じるものでもない、「歪んだガラス」。このギンズブルグの比喩は、外界と直接交わるのでも、外界の存在を無視するのでもなく、部屋の内部から外界の様子をこのガラスを介して観察する行為を求めている。いみじくもピエール・ブルデューは、文化生産の場を権力の場の「反映」としてではなく、 "a prism which refracts every external determination" として見ることを求めているが、ギンズブルグの「歪んだガラス」も同様の立場から、テクストの精読を通じて現実の歪んだ像を記述し、その像の歪みそのものに注目し、そしてそのガラスの向こう側へと接近していくよう求めているのだ、と思われる。
ギンズブルグはベンヤミンに倣って、「歴史を逆撫でする」という。「壁」に背を向けて部屋の中に閉じこもって史料を書いた人物のレトリックを分析するのでも、部屋の中身をしっかり精査せずに「開いた窓」の向こう側を安直に信じ込むのでもない。映りの悪い「歪んだガラス」を歪ませている作り出した者の意図・権力・レトリックを意識しながら、その向こうにある現実へと接近していく。内的に読むと同時に外的にその読みを折り返す。何度も繰り返す。
"prova" (prove)には、「確かめること」という意味に加えて「試みること」という意味が折り畳まれているように、「立証」(proof)は「歪んだガラス」の歪みを何度も補正しながら、その向こう側にある現実へと向かう絶えざる作業となる。ギンズブルグにとって、現実との関係を一回性のものとしている点において、史料を現実と同一視する読みも史料の外部を否定する読みも、双方とも「立証」とはいえない、ということなのだろう。レトリックを読む作業は、歴史的現実の「立証」へと向かっているということ。レトリックと立証は対だということ。