もろもろ。午前中、トイレの窓の取替え工事。パスタ。
「全日本プロレス必殺技」特集→http://www.youtube.com/watch?v=R7wZjErDR5I。メシ食いながら甲子園を観ていたら、ハンセンのテーマがかかってテンション上がり、ここに行き着く。高中正義演奏による天龍のテーマや長州のパワーホールもいいなあ。ロード・ウォーリアーズのテーマはこれブラック・サバスじゃないのか、もしかして。当時はガキ過ぎてわからなかった。最近のプロレスはほとんど観ないが、それにしても説得力のある必殺技がなくなったような気がする。昔はハンセンがサポーターに触ったら、だいたい時計に目が行ったもんだが。オート・リバースで入場テーマ集を聴きながら、宿題していたあの頃が懐かしい。しっかし、ハンセンのテーマがやっぱり一番テンション上がるなあ。ブル・ロープ振り回して蜘蛛の子を散らすように観客を追い払うあの姿が瞼に焼きついている。かっこええわあ。
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- 作者: G.C.スピヴァク,Gayatri Chakravorty Spivak,上村忠男
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1998/12/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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しかし、スピヴァク云々よりもむしろ、沖縄の聴衆を前にして、ある研究者が本当に「君たちはサバルタンではない」と発言したのであれば(とても信じられない話だが)、ポストコロニアル研究などまるで無意味な言語遊戯に過ぎないとすら思う。確かに字義通りに、くそ真面目にスピヴァクのテクストを読むならば、サバルタンは誰にも代表してもらえない、自分で自分を表象できないインドのマイノリティの暗数を指すものだと理解できる。その「あまりにも厳密な定義」に従うならば、確かに沖縄の人々はサバルタンではないだろう。しかし、サバルタンがインドのマイノリティの中のマイノリティを定義するだけの用語であるならば、サバルタンなどという用語の批評的価値はゼロに等しい。
サバルタンという用語に批評的価値があるとするなら、定義を御旗にサバルタン/非サバルタンを分類するために使うのではなく、サバルタンという見えない層を生む知の権力、あるいは代表=表象の権力について深く考えるために使うべきではないか*1。そうした問題意識があるなら、誰がサバルタンか否かを定義するといった(文化)リテラシーに秀でた特権的なエリート特有の発言はまずありえない。この発言は、沖縄の聴衆を非サバルタンとして扱うことでその声を奪い、彼らを(再)サバルタン化してしまっている。おそらくはこの発言は、沖縄の人々はサバルタンではない、という事実を確認する言明のつもりで発せられたのだろうが、その言明に彼らをサバルタンとして(再び)囲繞する身振りが伴うことに関して鈍感すぎはしないか*2。そもそも、ポストコロニアル理論の第一人者が、東京以外の場所で、大阪でも京都でも福岡でもない、沖縄で講演を行うということの意味が軽すぎはしないだろうか。サバルタンという語が孕む問題意識は、沖縄でこそ語られるべきものだと思う。しかし、残念ながら講演は行われなかった。スピヴァクの沖縄に対するスタンスは何も明らかにされなかった。明らかになったのは、知の権力構造がまだまだ健在だということ、そして沖縄の聴衆はそれに対して失望したということだけだ。