格差社会

 もろもろ。マグロのカマ焼+昨日の残り。
 随分歩くのが楽になった。けど、左足は相変わらず腫れあがっている。肉離れを抱えたまま半年ぐらい我慢してプレーしていたときのくせが染み付き、自然と右足をかばうような走り方になっているせいもあるかもしれない。まあ無理したせいなのだけども。
 風呂にて、やたら垢が出るなあと思って、ふと考えてみたら日焼けで剥けたのだった。久しぶりに脱皮。
 
 内田樹が夕刊で格差社会について書いている。ブログで見たような気もするようなそんな文章。要はお金だけを物差しにするのではなく、人柄だったり気概だったり知性だったり、色んな物差しで人間を測ろうよ、というもの。
 以下、そりゃそうだろうよ、という当たり前のことについて書く。基本的に内田さんの意見に異議はないのだけれども、格差社会というときに自由競争社会との違いは明確にすべきだと思う*1格差社会は格差がほとんど誤差なく再生産されていく社会で、自由競争社会は格差はあるけども流動性が担保されている社会だということになる。私は現状認識として、格差社会の存在は認めるが、その正当性は認めない。その一方で、自由競争社会の正当性は積極的に認める。
 今の世論の状況を見ていると、格差は当たり前とみる見方とみんなを平等にしようという見方の2つに割れて、不毛な論争を延々戦っているような印象がある。まるで、体罰教育とゆとり教育の戦いを再現しているかのような感じもする。問題は、格差が是か非かというものではなく、格差に流動性を持ち込めるかどうかというところにあるように思う。
 格差社会を正当化する人たちは、格差と競争とを混同する。平等な社会を夢見る人たちは、機会の平等ではなく結果の平等を求める。格差はどこかにかならず生まれる。だからといって、格差の再生産によって同じ構造が維持されるような社会であってはならない。それと同じように、結果の平等ばかりが再生産されて、いくら頑張っても報われない社会では先細りが待っている。格差はあるけども、頑張れば上にいく見込みがあるし、サボれば下に落っこちるような流動性のある社会モデルの方が遥かに現実的だし、説得力もあると思う。この手の議論は、例の最近の過激な論文のように、流動性をいかに担保するか、という一点に集中するべきだと思う*2
 流動性さえ担保できれば、あとは経済的な負い目など努力次第でどうにでもなる、と胸を張っていえるわけだし、内田さんがいうような経済的な指標以外の基準で国民の資質を判断するという理路も現実味を帯びる。*3経済的な格差が国民的な問題となっている以上、それ以外の格差で優越していることに慰めを見出すような方途は選択肢にならない。*4内田さんの議論が現実味を持つのは、流動性が確保された後の話ではないだろうか。
 といっても、流動性の確保というのはかなりの難題。インフラにおいてもいくつか打つべき手はあるだろうが、学校・家庭を含めた若年層に対する総合的な教育こそがもっとも喫緊の課題であるように思われる。*5この点に関してはあまり多くのことはいえない。給付型の奨学金やその原資となるべき民間からの寄付によって生まれる "pay it forward" の循環を日本に根付かせる努力はしてみるべきだと思うものの、寄付の文化が脆弱で、利己主義が蔓延した日本ではまず無理だろうとも思う。 

*1:ここでいう格差は、経済的格差のこと。

*2:もちろん、流動性を利用できない弱者については別に策を講じる必要がある。

*3:というより、流動性が確保されれば、もはや経済的格差に対する恨みつらみは意味をなさなくなる。

*4:結局、経済的格差を顧慮しないのは、個人的資質に秀でた人間ということになる。

*5:やる気がなかったら、流動性が担保されていても、格差社会は変わりませんから。