清水知子『文化と暴力:揺曳するユニオンジャック』

文化と暴力―揺曵するユニオンジャック

文化と暴力―揺曵するユニオンジャック

 サッチャリズム前後のイギリス文化・政治の状況をケーススタディとして、自由と多様性の行方を探る一冊。ファッション、美術、文学、都市計画と領域横断的。資本主義の自由以外の自由、文化の多様性以外の多様性は可能か、という問いに貫かれていると、わたしは思った。
 問題が解決されていないと感じるときには、問題の根源に還ることが肝要だろう。すなわち自由とは、文化とは、多様性とは・・・。
 ロマン化されたディアスポラは、文化的アイデンティティを個人に強制してしまう。離散した共同性の表現であるディアスポラは、理念的には伝統の絶えざる刷新をもたらすものであるはずだ。しかしそれは、起源の場所から隔離された共同性であるがゆえに、かえって旧弊の国家アイデンティティや宗教の縛りを強化してしまうノスタルジーへと転化することもある(アンダーソンのいう「遠隔地ナショナリズム」のように)。このように自由や多様性に価値を認めるのは当然としても、その自由や多様性のありかたは決して普遍的な価値ではない。それが自由だとして、では自由なだけでいいのか。それが多様だとして、では多様なだけでいいのか。自由や多様性を叫ぶとき、自由や多様性の名を借りた支配や隷従の仕組みを、知らず知らず受け容れてしまう可能性すらある。
 1950年代以降のアメリカでは、人類学的人種が、旧大陸由来の文化的出自=エスニシティに置き換えられていった。そのとき黒人たちの歴史や文化の抹消(殊に中間航路の抹消)が起こった。文化の多様性が社会通念になることが、必ずしも文化の問題に解決をもたらすわけではない。『ポストエスニック・アメリカ』のような、自由にアイデンティティを選択できる、という解放論が、既存の文化の類型(黒人、ヒスパニック、アジア系…)からの選択を前提としている欺瞞を思い出してもいいかもしれない。文化の多様性は、≪個人≫が既存の文化に絡めとられないで済む自由をいかに担保するのか、という問いなくして達成できない。つまり集合的なアイデンティティを共同体から先天的に賦与される≪個人≫ではなく、自分に相応しいアイデンティティを後天的に欲望する≪わたし≫への問いである。
 選択肢が既に存在している状態を自由と呼ぶだけでは不十分だろう。既存の選択肢に加えて新たに選択肢を創り出す自由を模索すること。新しい選択肢を生む営みは、被服なのかもしれないし、音楽なのかもしれないし、インスタレーションなのかもしれない。なんであれそのように選択肢を増やしていく営みを認め、それらを記述することを通じて初めて、多様性は理念の位置に留まることができるだろう。 
 本書を一読、そのようなことを考えた。
ポスト・エスニックアメリカ (明石ライブラリー)

ポスト・エスニックアメリカ (明石ライブラリー)