『イメージ、それでもなお』第1章、脳内ロイヤルランブルツイートまとめ

 

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真

 
 こちらのレジュメに触発されてひとつ考えてみることにした。引用文献等に当たって講読を試みている。→http://d.hatena.ne.jp/nowherezen/20121027 少々乱暴ではあるが、思ったことをだだっと書いたツイートをまとめておく。

 ※一部加筆・訂正
 
 昨晩、ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』の「イメージ、すべてに抗して」の章まで読んだ。DHの著作を読むのはこれが三冊目。以下、まとまりのないメモ。テーマは、「『なにひとつ痕跡を残さない』こと、残りすべてを消滅させること」(32)をめぐる批判に集約できるかもしれない。
 つまり、見るべきもの、見ることができるものだけがあり、それだけが残されている、と考える歴史主義とナチスの所業は酷似しているということ。見えるものだけが全てなのか。見えないもの、あるいは見えなくさせるものも含めてすべてただ在るのではないか、と問うことこそが、DHのスタンスだろう。
 見えるものと見えないものとの間に隔たりのない世界、ヴィジュアルなもの、「ウツルもの」の次元を行き交うのがイメージであり、イメージによって浮かび上がる出来事を記述するDHの批評の方法はここでも一貫している。「想像力」(構想力)がひとつの鍵語として使われている。
 それは「表象」を問うため。カントの雑獏とした私的知識に依れば、表象は構想力の図式化と綜合によって悟性の概念規定を受けるものであり、感性的直観と悟性概念とのあいだを橋渡しするのが構想力の働きだといえる。
 究極的には理性理念の枠組みがあってこそ認識はうまくいくというのがカントの考え方。それでも、宮崎さんやド・マンその他の論者が論じているように、構想力は必ずしも悟性概念の枠組みには収まらず、むしろその枠組みを理性理念の感性的な表出というかたちで脅かしてしまう危うい潜勢力を有している。
 つまり、美的判断力は、予め用意された枠組みに収めることなく、その枠組みを変えてしまう。したがって、美的判断力は(究極的には崇高の相において)既存の法とは異なる法を立ち上げる可能性を孕んでいる。また事後的に、決定不可能性に対して権利関係の判断を下すことが無限の理念に適ったものであることが示され、その行為は道徳的なものだと認められる。美的判断において、もっとも重要なのは、主体が決定可能な判断の余地を与えられると共に、その余地が決定不可能性の倫理によって生まれているという、その否定的=消極的な立法の行為遂行性にあると思う。
 さて、アレントらの政治批判を介して導き出されるのは、構想力もまたこうした判断力の次元、つまり(政治ではない)政治的なものの次元に係わり、既存の政治を反復しながらそれとは異質なものを出来させる搦め手となりかねない、ということ。
 バトラー『戦争の枠組み』やスピヴァクが近年の著作で主張していることとも通底するが、DHもまた、ある出来事を目に見える歴史へと還元する操作は、解釈できる範囲が予め限定されていること、もっと言えば情緒的な反応さえ予め限定されていること、を前提としていることを批判していると思われる。
 アウシュヴィッツを出来事として捉えるには、目に見えるものを思考するだけでは、「表象不可能」という抜き型を再生産するだけの、美学化の嘆きとでもいうものに留まってしまう。ここでソンタグが示し、バトラーが肯定したように、写真に「とり憑かれること」が重要になってくるのではないかと思う。
 思考の限界が訪れて初めてとり憑かれる。この憑依の情態は、見えるもの/見えないもの、意識/無意識といった区分とは別のウツルものの次元にある。この次元において、歴史が求める知的な全体性・明証性とも、表象不可能という感性的な美学化とも異なる、イメージによるデジャメ的求心力が働く。
 だから、感性とも知性とも異なり、双方を同時に足場とすることができる、枠づけられながら潜在的に枠組みをもたない漂うweatherのようなイメージの次元、想像力(構想力)の再考が鍵となる。始めに戻れば、「残り」を絶滅させることとは、すべてが目に見えるものにするということと同義。
 実は、ナチスが収容所内部を撮影禁止にすることとたくさんの写真を撮っていたこととは矛盾しないのではないか。収容所がその外部にとって存在しないものであるということと、収容所に所属する人間にとって内部が見えるものであるということは、見えるもの/見えないものの次元に所属しているから。
  DHは、まだ「残り」があるから消滅させたり禁止する/「残り」はなくすべてはお天道様の許にあります、という思考法そのものを批判しているのではないか、と。えー、それから、細部を足して行って全体の明証性が確保されるのではなく、イメージの世界においてすべては完成されていない部分、というのは『イメージの前で』の話だったと思う。あと、『イメージの前で』でも本作でもギンズブルグに対する批判的な姿勢を感じる。歪みを糺すギンズブルグのやり方が、ガラスを磨いていく、目に見えないものを排除していくものだからか。
  以前ギンズブルグについてはURLに書いた。それから、人類学という課題は、おそらく「人間の終焉」テーゼとも関連するだろうが、文化を記号の解釈対象(知性の対象)として考えると行き詰ってしまうが、文化を記号よりも広大なイメージの世界で捉える、つまり「人間の始まり」を志向するということだろうか。人類学者・クリフォードのマリノフスキー解釈。フィールドにおける客観的記述とは別に、主観的な日記をマリノフスキーは残していて、そこで彼は悪口雑言を書いているのだが、感情の入らない客観的な記述と感情的な記述を繋ぎ合わせることで、観察者/原住民という区別を取り払い、フィールドという場を再考するという試みとも似ているか。長すぎるし、まとまりが悪くてすみません。ワードで書いた方が良かったかも。訂正、批判などご自由に。とりあえず〆。
 あとは、ディディ=ユベルマンの「真実」というタームの使い方は、バルト『明るい部屋』に準じているような気がする。
 ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』、第一部あと一節残っていたので、急ぎ読んだ。メモ。従前のイメージの現象学を捉えるには、映像の細部に対する注視とそのイメージを規定する形式に対する広い目配りとが要求される。
 フロイトのいう注視と漂いわたる注意(車の運転)のようなものを思い浮かべるといいだろうか。特に後者は、人類学的要素としてこの節では重視されている。人間に似ているとは思われないような≪モノ≫としての人間をつくることがアウシュヴィッツの人類学的意味だった。
 我々と意味ある繋がりが認識されないモノ自体へと人間を定めること、存在はするが認識対象として≪現象しないモノ≫に変えること。擬人の痕跡を消すことがアウシュヴィッツの人類学的意味だとするなら、人間の形そのもののイメージを抹消する力に抗しながらそれを保持し続けることこそが喫緊となる。
 DHが人類学的要素と呼ぶものは、こうした見えるものと見えないものとにイメージを分かとうとする権力の働きの主題化とその批判だと思われる。そしてその人類学的要素を汲むためにこそ、イメージを汲みとる細部への注意は意義を獲得する。
 人類学的要素は、「アウシュヴィッツは想像可能なものでしかなく、われわれはイメージに拘束されており、[中略]その内在的批判に着手しなければならない」という箇所に集約されている。
 多少意訳するなら、アウシュヴィッツを考えるということは、われわれは人間のかたちのイメージのおかげで人間でいられるということ。そしてイメージはわれわれの存在の条件であり、そのイメージを無化しようとする力がアウシュヴィッツに働いていたと事実は、われわれが人間として生きる上で無視できない。
 人間がイメージを奪われるという危機がすでにアウシュヴィッツにおいて起こった以上、われわれは常にその危機と背中合わせなのであり、イメージを剥奪されるかもしれないという点においては、常にわれわれは今もアウシュヴィッツの内側にいるも同然だということ。
 だからこそ、アウシュヴィッツの不鮮明な写真に写る、モノにしか見えないものに意味を読む前に、まずはイメージの危機に抗して注意を漂いわたらさなければならない。
 それは歴史的問題である以上に、我々のアイデンティティに係わる内在的批判の問題、つまり人類学的問題なのだから。こうした問題意識をDHは、ベンヤミンの「根源(アルケー)」から引き継いでいると思われる。〆
 歴史認識ではなく、根源の感知の問題。綜合を達成する表象ではなく、漂いわたるように想像するということ。壊された人間のかたちを感知し、われわれと同じようなかたちを想像すること。妄想ではなく、共に構想すること。知性は想像力が見えるものだけに向けさせられていることへの批判のために使う。