正義と翻訳

 読書、その他。原稿をプリントアウトして、ファミレスで自分が何を書いたか直視する。目を背ける。買い物して帰宅後、ちょっと一休みしたら熟睡。嫁が帰宅して覚醒。ばたばた豪華なラーメンを作る。ほんとはカレーのつもりだったんですけどね。

デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

 著者の専門である現象学の系譜にデリダを位置づけたのち、「不在」と「現前」、「反復」(repetition)と「繰り返し」(reiteration)の関係から脱構築を概説し、可能性としての正義の話へと至る。pp114-17あたりに全体の総括がある。デリダへの語りかけという形式で進行し、主としてテクニックよりも理念的な部分を優先して脱構築を紐解いている。しばしば、脱構築をほとんど「破壊」と同義のものとして見做す方がおられるが、そういう方はpp55-57あたりを読むといいかもしれない。pp112-14あたりで、脱構築が正義である所以が丁寧に述べられている。著者独特の表現でデリダの思想を言い換える箇所が多く、またデリダのレトリックをなぞる形で進行するため、初心者にはきついかもしれない。なお、著者の専門はレヴィナスとのこと。読み終わった後で納得した。かつて、デリダは「脱構築というのは人が手を加えてやるものではなく、勝手にそうなっているのだ」というような趣旨のことを言っていたように記憶しているが、『法の力』あたりから主体の決断が重視されてきた、という理解でどうやらあってたようだ。ぼんやりとそんなことを考えた。もっと暇があったら考えてみたいが、またの機会に。このシリーズ、読んだことなかったけど、他のもちょっと読んでみたくなった。


 

人文学と批評の使命―デモクラシーのために

人文学と批評の使命―デモクラシーのために

 訳者あとがきより。文字通り読んでもいいだろうし、翻訳書のさらなる翻訳の可能性を考慮に入れて読んでもおそらく許されるに違いない。
 

イードが世を去って三年近くたつ。日本では、ありがたいことにと言うべきか、翻訳作業のタイムラグのおかげで、作者の死後も本書を含めてつごう五冊の著書が出版されているし、今年は佐藤真監督による、サイードは画面上に現れないが紛れもなく彼を主人公にしたドキュメンタリー映画エドワード・サイード OUT OF PLACE』も公開された。彼がもういないということの重みを、わたしたちはまだ比較的薄くしか感じていないかもしれない。しかしアメリカでは、サイード一人がいるといないとで、たぶん光景がずいぶんと違ってみえる。パレスチナ問題についてはむろんのこと、人文研究の世界でも、彼のように幅広いテーマについて自分の声で発言できる「知識人」はいまほとんどいない。スーザン・ソンタグも二〇〇四年暮れに世を去った。アメリカの大学世界はあまりにも専門分化しているし、マスメディアでは、文学の教師が政治問題を語る場がほとんどない。本書がなにより厳しく批判しているのは、そうした専門化によるタコツボ的状況と、それに安住している人々だ。なにかの事件が起こったとき、なにか重要な本が出たとき、「あの批評家はなんというか」と反応を心待ちにするというのは、日本の文学批評の世界では当たり前の感覚だが、アメリカでそのような場所に立てた人は数少ない。サイードがいないということは、専門化から離れて語れる声、数少ない知の基準点の一つがもはやないということだ。とはいえただそれを嘆くような態度は、要するにスター崇拝にすぎない。個人崇拝からくる喪失感に耽るのでなしに、人文学の営みを継続し、ささやかにでも仕立てなおし続けることが、サイードの遺産を前にした者の仕事ということになるだろう。(181)