バベルでダベル

 嫁が代休。そんなんいらんからきっちり働かせておくんなはれ、といいたいところではあるが、せっかく頂いた代休なので(棒読み)、映画でも見に行くか、ということに。内心、「キタロウ」を見たい、というか、確認したいというのが本音ではあったが、まああれはレンタルビデオでもいいか、という常識的判断が働き、さて、どうするかということに。はてさて、嫁の中学時代のアイドル、ロッキーの末路を拝みに行ってもよかったのだが(実はイタリアからの復路の機中、機内で上映されていたのだが、画面が遠すぎて見るのを放棄した)、ここはアカデミー賞で話題だった『バベル』を見ることに。帰りにカラオケで晩飯を食べて(だってドリンクもフードも半額なのだ)、帰宅。
 で、『バベル』(以下、ただのメモ&ネタバレ)。

タイトルどおり、旧約聖書「バベルの塔」のお話をベースにした内容。大雑把に言うと、「バベルの塔」は、もともとひとつの言語をしゃべっていた人間が別々の言語をしゃべるようになる、というお話なのだが、『バベル』はアメリカ、メキシコ、モロッコ、日本という異なる言語世界をクロノトープ状に並列させ、communicationとdiscommunicationの関係を主題化する。
 事件は、モロッコの羊追いの兄弟がオオカミを撃つために父親から預かった銃でいきおい観光バスを狙ってみようということになり、弟が撃ってみたところ、実際に当たってしまった、というところに端を発する。この銃、実はモロッコ在住のガイドがこの兄弟の父に譲った銃なのだが、その銃をガイドに譲ったのは、日本人の観光ハンターで菊池凛子演じる女子高生の父(役所広司)。撃たれたのは、ブラピ演じるアメリカ人観光客の妻。この夫婦の子供たちを生誕時より世話してきた乳母は、メキシコで親類の結婚式に出る予定だったのだが、事件をきっかけに予定が狂い、子供たちを引き続き世話するはめになり、困った末に、子供たちもメキシコにつれていくことに。という形で、一発の弾丸が異なる言語世界を偶然結び付けていく。ただし、どうも単純に異なる言語世界同士を相似関係のもとに置くというだけでもないようで、これらの異なる世界同士はそれぞれdiscommunicationの問題をあらわにすることで繋がっているように見える。
 突如として異国の地で生死に関わる重傷を負うアメリカ人夫婦は夫婦間に問題を抱え、また現地モロッコ人との間にコミュニケーションの問題を抱える。アメリカ人夫婦の子供たちは、全く当地の言語もわからないまま、メキシコで結婚式に出席し、挙句メキシコからの帰路において運転手のメキシコ人と乳母とのコミュニケーション不足で米墨国境地帯の検問に引っかかり、砂漠地帯で路頭に迷う。日本では、唖者である菊池凛子演じる女子高生が、健常者との間の関係に悩み、セクシュアリティという最も手っ取り早くみえる近道を打開の手段とするも失敗し、結局筆談という最も遠回りなコミュニケーション回路を選択する(Poe=Lacan的に手紙の内容を明かさないことで成否は明らかにされない)。このように、『バベル』は銃と弾丸を通じて複数のコミュニケーション不全状態にある場面同士をコミュニケートさせるという構造をもっている。いわば、グローバルな『Lost in Translation』状態のようなものか。*1
 家族問題というのもやはり大きなテーマか。アメリカ人もメキシコ人もモロッコ人も日本人も、それぞれ家族に焦点が当たる。アメリカの夫婦には2人の子供、日本の家族は母を銃によって亡くした父と娘2人きり。それに比して、メキシコ人の家族は拡大家族による祝祭的な結婚式という形で描かれ、あるモロッコの通訳は子供が5人いると告げた後で、アメリカ人夫婦に対して「もっと子供をつくれよ」という。ある意味、家族構成という観点から言えば、アメリカや日本の家族に核家族化の影が差し*2、何らかの問題を抱えているのに対して、メキシコやモロッコの家族は多数の構成員を擁し、家族自体に問題はない。全般的なコミュニケーションの問題に、家族内部の多様性・多産性を軸とした格差を重ねるのは行き過ぎとしても、家族内部のコミュニケーションの問題の有無という対比は成り立つように思う。
 しかしながら、家族の問題を抱えている側が少なくとも何らかの希望を見出すのに対し、何の問題もなかったはずの家族が突如として災難に見舞われる。前者であれば、アメリカ人夫婦は銃撃事件をきっかけにお互いの信頼関係を取り戻すし、日本人親子は夜空のもと全裸の娘を父が無言で抱きとめるという形で何らかの言葉にできない解決を予感させる。その一方で、アメリカ人夫婦に雇われたメキシコ人家政婦は、国境突破と不法就労の咎で強制送還され、もとよりこの物語の原型をなす銃撃に関わったモロッコ人一家は、警察に包囲され、応戦した挙句、兄弟のうち、兄が撃たれ、弟は投降し、一家離散を匂わせる。特に、アメリカ人夫婦の子供2人をわが子同然に育ててきたメキシコ人家政婦に対する強制送還は、彼女にアメリカ人ではないという国家的所属に関わる現実とともに、それまで暮らしてきた家族がその実擬似家族であったという現実をもたらした。*3こうしてみると、コミュニケーション不全に悩んでいる当事者たち(日本人・アメリカ人)がコミュニケーションの回路を見出していく一方で、それを取り巻く予め問題を抱えていない人々(メキシコ人・モロッコ人)が問題を抱えるようになる、という形で、両者は負の相関関係にある、と大雑把にまとめることができるのではないだろうか。
 はてさて、当然ながら『バベル』は、テロ並びに9・11以降の世界情勢を織り込んだ映画でもある。観光客銃撃事件の起こるモロッコイスラム圏であり、現在アメリカ政府によるプロファイリングの対象となっている。事実、モロッコの羊追いの少年たちによる銃撃はテロ事件として作中のメディアで扱われる。ここにも、コミュニケーションの非対称性という問題が、今度はマクロの視点から描かれていると見ることができる。アメリカ人観光客を乗せた観光バスという外界から安全に隔離された空間(ハリウッドの文法において、しばしば集団が乗りあう公共機関は事件に遭遇することで、ある種の共同体としての機能をもつことになる)に突如として侵入する弾丸は、アメリカ国家に対する脅威、テロとして機能する。しかし、モロッコの少年たちにしてみれば、それは初めて銃を握る幼子の腕試しの延長でしかない。彼らは標的をオオカミから岩、トラック、そして偶然通りがかった観光バスへと変更している。オオカミを追い払うための銃の標的が、換喩的にずれただけのことである。しかし、銃を撃った主体もその結果換喩的にずれることになる。ただの羊追いは、国際的テロリストへととんでもない換喩的飛躍を遂げることになる。その上、銃撃の犠牲者=対象が死亡したという誤報を受けた羊追いたちは、主体である自らに対する報復の結果を恐れ、逃亡を図るも、警官隊に撃たれ、ひとりの犠牲者を出す。弟が撃った弾は、対象をテロの犠牲者へと変え、一家をテロリストへと変え、ついには実際に銃撃したテロリスト=弟ではなく、兄が死ぬという換喩的変換で物語は幕を閉じる。こうした換喩的ずれがもたらす結果は、奇しくもグローバルなコミュニケーションの非対称性と正の相関関係を結んでいるといえる。つまり、本来銃を撃つ主体者であったはずの羊追いの少年たちは、国際的なメディアや警察の情報交換の中で客体=テロリストとなり、そのまま非対称な関係の中に留め置かれるわけだが、銃撃を巡る換喩的変換もアメリカ人妻が生還する一方で、モロッコ少年の兄が射殺されるという非対称な形で打ち止めになる。
 いかん、こんなことやっている場合じゃない。書きすぎた。何のヴィジョンもなく書き出すとろくなことないなあ。あんまり内容が酷いんで、いずれ消すか書き直すかしますが、ひとまず忘れます。
 

 
 

*1:ただし、アメリカ―メキシコ―モロッコというつながりは、事件の当事者が関わるので理解できるが、銃のもともとの所有者がいるとはいえ、なぜに日本?というところは最後まで腑に落ちなかった。恐らくは、言葉が通じない状況をスクリーン内部だけではなく、スクリーンと観客の間に最も効果的に作り出すために、日本語健常話者/日本語唖者というアメリカにとっての他者同士の対立を必要としたのであろうが、物語的に必然性がない。というか無駄に長い気がする。あと一時間近くは編集でカットできるはず。日本編いらんだろ。

*2:アメリカ人夫婦は夫婦間の不和、日本人の父娘は妻/母親の自殺によるすれ違いの問題を抱えている。

*3:砂漠で迷子状態になった際、この女性は救援を求めに子供たちのもとを離れ、警察に捕まってしまう。その後、警察と共にもとの居場所に帰ってくると、子供たちはいなくなっている。法的な意味でtransgressor(文字通り越境者でもある)となった時点で、彼女は彼女をアメリカへと職業的にも精神的にも結び付けていた子供を失う。