歴史とトラウマ

 もろもろ。弁当。初秋刀魚(刺し)。
 世陸の閉会式で「河内音頭」を踊ったらしい。ワケわからんな。


歴史とトラウマ―記憶と忘却のメカニズム

歴史とトラウマ―記憶と忘却のメカニズム

 再びかなり昔に読んだ本を。精神分析、特にトラウマ理論を社会・歴史・文学批評に援用した著書。正確さよりもわかりやすさを優先した印象で、とにかく精神分析系の本としてはかなり読みやすい部類に入る。
 
 トラウマの問題圏を歴史との関係で見定める第1部、個人のトラウマと発声との関連を分析する第2部、(アメリカ)国家レベルのトラウマを扱った第3部、記憶と歴史との関係を再び問い直す第4部、という4部構成。題材もデリダベンヤミン、ギンズブルグにジェファソンの不倫、バタフライナイフ事件、尾崎豊と、硬軟織り交ぜて飽きさせない。解釈や理解に異議を唱えたくなる場面も多々ある*1ものの、議論全体の方向性自体は大変興味深い。
 本書が試みるのは、人間の営為を隔離された特権的な位置を確保した上で語ろうとする歴史を、それによって抑圧されたり消去されたりする記憶の領域に引き込んでいく「記憶の政治学」の一種(歴史を精神分析する/精神分析を歴史化する)。冒頭でトラウマの普遍化について支持する旨述べられているが、それはあらゆる人々を被害者として同定したり、精神病の適用範囲を際限なく拡大するためではない。そうではなく、著者は、トラウマを普遍化することで、被害者/加害者の反転可能性を焦点化し、分析者/非分析者の間のcompassion=転移関係に権威の解体の契機を見出す*2。言い換えるなら、「お前のここがおかしいだろ」(オレ/私は関係ないけど)という言明の中に「オレ/私もおかしいけどね」という自己言及的な徴候を探ることで、著者は特権的なメタ言語を解体する。*3
 トラウマ探しに興じるメタ言語の行為者としての分析家の姿を著者に重ねてしまうと、なかなか読むのはしんどいかもしれない。敷居が高いがゆえに精神分析はそれ自体がメタ言語のように思われていることが多い。*4 本書がそうした批判を回避しようとしているのは間違いないと思う。トラウマは加害者が被害者に植え付けるような一方的な暴力の痕跡ではないし、分析家が患者に一方的に下す診断の名前でもない。本書のトラウマは、加害者と被害者、分析家と患者とが相互に関係しあって構築し、その関係が変化していく中で、姿を変えていく場所として描かれている。ときにトラウマ実体化の陥穽に落ち込むような気配もあるが、わかりやすさを優先した本書の性格と、関係性の中間領域としてのトラウマという基本コンセプトを考慮すれば、それほど疑問に感じることもない。それでも、わかりやすいがゆえに、安易にトラウマを実体化して単純化するために本書を利用してしまう危険性もあるので、そのあたりは注意が必要だと思う*5
  

*1:例えば、シニフィエを実体と評したり、奴隷解放宣言に、黒人を共同体の構成員として認知する行為遂行性を見たり。

*2:こうした読みは、臨床の場における診断名としてのトラウマを括弧に入れることで成立すると思う。つまり、言説としての精神分析は扱うが、臨床における実践としての精神分析は扱えないということ。極言するなら、人文学は言葉で語られる医学は扱えても、医療行為はできないということ。たまにごっちゃにして見当違いの批判をする人がいるが、そこらへんはちゃんと分けておいた方がいいと思う。

*3:中でもデリダの『法の力』分析とフロイト精神分析誕生の起源を掘り崩す箇所は大変興味深い。

*4:実際、そのように使う人も多いわけだけども。本書もそうした批判にしばしば応えようとする(例えばp344)。

*5:ハーマンを使うのはやめておいたほうが無難だと思う。