羞恥

 麻婆豆腐二日目。作りすぎた。二日かけて食べるものでもなかろう。
 
 

 第一印象は、いい紙使ってんなあ、という俗っぽい感想だったりする。
 コプチェクの「羞恥のなかに下りて」はおもしろかった。羞恥という感情は、他人のまなざしに従属するのではなく、自らを対象化する自分のまなざしに起因するが、それは同時に自己が属する文化のレベルで、公共性の領域で経験される、というもの。その感覚は、公共空間における剰余としての主体のありかたを問い直す体験をもたらす。ありていにいえば、いごごちの悪さというか、収まりの悪い感覚は、自分の内面世界と外界との不一致によってもたらされる。羞恥、あるいはそうした内外の不一致をベールや建物などで隠蔽しようとするようなシステムは、人の内面世界を守るように見えて、実は内面世界を一望監視の下に置き、管理しているのと同じこと。プライヴァシーは、むき出しにされ、人の目に映る全てのものがプライヴァシーと化す。このように、羞恥は社会的な感情なのであり、その感覚を失う、あるいはそれを経験せずに生きていける環境に置かれたものは、公共の場から隔絶されているというだけではなく、プライヴァシーも侵害されている。というような講演なのだが、まだ消化できず。なんとなくわかったような、わからないような。
 その他印象に残ったもの。
 戦後、アメリカ的生活様式へと日本の女性たちを教化する上で、様々な雑誌と並んで、『赤毛のアン』を始めとする児童文学が大きな役割を担ったことについて論じる「戦後少女の本棚」。翻訳の問題もそうだが、児童文学の場合、抄訳の問題も視野に収める必要があるのだろうか。
 日本人を小児化するジェンダー表象を、ヴェトナム帰還兵のマチズモを批判する非規範的な日本人のジェンダー表象が入れ子式に包摂すると読む「武術映画における男性性の逸脱」。冷戦の構図に日本を包摂し評価したうえで、独自の立場を与えて利用する安保体制の文脈で『ベスト・キッド』(懐かしい)を読んでいる。
 『最終兵器彼女』と『海辺のカフカ』を題材に、暴力の行使とカタルシスを癒しの物語として無批判的に消費する姿勢を批判する「<暴力>の表象/表象の<暴力>」。消費のされ方、読み方を予め規定されていることに対する疑いのまなざしをもつことの必要性。
 排除や孤独、棄却に苛まれる差別の対象となる一方で、エリート主義や優越性、女の差別といった逆差別の主体と化す可能性もはらむ「女の男性性」(female masculinity)というカテゴリーに光を当てる「女の男性性」。女性の暴力について考える材料になる。