かわいいとグロテスク

 四方田犬彦は『かわいい論』で、「かわいい」と「グロテスク」とが隣接関係にあると華麗に喝破したが、昨日、スーパーのレジに、それが生々しく現前している現場を目撃した。10ほどあるレジに、レジ係は3人。がらがらのレジに、2人は隣接していた。あの鬱塞した暗さがやるせない。だがきっと、四方田説に鑑みるなら、両者の差は紙一重。微笑みひとつで状況は劇的に改善するに違いない。
 以下、例によって映画の寸評。

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凍結した時間/記憶を解凍するには長い時間がかかる、というテーマを、長まわしの映像でつなぐ3時間半の映画で表現するというのは、どうにも芸がない印象。現前じゃなくて、表象して欲しかった。まとめると、無駄に長いということ。21世紀最高の邦画に選ばれたらしいが、まるで理解できない。玄人受けするのだろうけど、素人には理解できない。

シェフィールドの失業者が、ストリップに挑戦する映画。サッチャリズムジェンダーセクシュアリティ、見る/見られる/観る、などなど。階級にかかわらず、不況に苦しむ男たちをつなぐ「サッカー語」が興味深いところ。しかし、主人公が息子に対して「マンUvsシェフィールド・ユナイテッド戦を見に行こう」と呼びかけるシーン。両者の間には学校の柵がある。失業後、元妻は裕福な新しい男と共に新生活を始めており、離れ離れの父子間には階級の見えない壁がある。「サッカー語」は、steel strippersの内部では階級差を超えて連帯感を育むが、チケットが高騰を続けるサッカー観戦はもはや階級差の指標でしかない。それでも父親に寄り添い、「父のように」父を励まし続ける息子の姿が、階級を超えて連帯し、不況を共に乗り越える本筋のト書きとなっている。あくまで、不況という例外状況ではあるけども。

人知を超えた嗅覚を持つ一方で、自分は匂いを一切発さない男の自分探求=香水精製譚。革命前夜のフランスを、悪臭も芳香も分け隔てなく愛する男の視点から、階級越境的に描いている。『透明人間』を参照しているのだろうか。絶対に見られない立場から全てを見ようとする透明人間に対して、一切匂いを持たない、つまり誰にも気づかれない立場から、全ての匂いを嗅ぎ分ける男。彼に連続殺人を可能にさせているのは、まさにその類まれな嗅覚であり、誰にも気づかれない無臭の身体なのだが、同時にその殺人の目的は透明人間とはちょっと異なり、被害者の身体から匂いを抽出し、究極の香水を精製することで、自分の存在意義を万人に認めさせる、というもの。他者の匂い=<他者>を利用して、自己同一性を獲得するというか。しかし、その究極の香水=<他者>は、彼を死罪から放免する一方で、彼を究極の疎外へ追いやる。匂いへの自己同一化を図り、群集に引き裂かれ、跡形も残らず存在を消す彼の最期は、<他者>と自己同一性の二律背反を物語っているということか。もうひとつまとまらず。

トルーマン・カポーティの伝記的映画。一家惨殺事件とそれを取材するカポーティの描写を通じて、冷血なのは誰?、と問いかける。冷血なのはカポーティ、というのが一般的な答えなのだろうが、「ノンフィクション・ノヴェル」こそ冷血、という答えも別解として許容されるに違いない。カポーティを襲った深い悩みは、きっと「ノンフィクション」と「ノヴェル」の自家撞着に由来するのではないかと。ジャンル論で片付けることはできないだろうけど。