青い海と灰色の基地

 洗濯、読書。久しぶりに近くのファミレスでドリンクバー読書。晩はジンギスカンその他。
 YouTubeはなにやらダウンしていたようで。しかも日本人ユーザーに対するあてつけもあったようで。しばらくトップページに貼られていた "ALL YOUR VIDEO ARE BELONG TO US" という言葉にはこんな背景があったようですどうでもいいっちゃあどうでもいいんですけど。→http://ja.wikipedia.org/wiki/All_your_base_are_belong_to_us  
 とある先輩のせいで「河内のおっさんの唄」が耳にこびり付いて離れない。こんなフラッシュを見つけました。河内フリークはどうぞ↓http://hakubun.ddo.jp/~sophia/ug/toyota/t30.swf
 
 

 1972年の沖縄復帰を経て開催された復帰記念イヴェント、1975年沖縄海洋博とそれを巡る沖縄の状況を分析している。議論の大枠はフーコー。沖縄が日本の列島改造計画の中に包摂されていく過程で、楽園的なイメージの生産のために「基地の島」という生活に根ざした実情の排除が行われていく。しかし、「基地の島」という拭い難い現実は、さながら亡霊のように沖縄につきまとい、理想的な楽園として造成された沖縄海洋博会場の内部に沖縄県が出展した沖縄館にその微かな痕跡が残る。その一方で、当時の沖縄県民の意識は、もっぱら経済的な発展の方に向けられており、国家規模の高度成長経済の中に完全に包摂されていく。本書の分析も、沖縄が日本復帰に際していかに物心両面において変容を蒙り、その過程で動揺を露にしていったのか、という点を焦点としているため、「基地の島」は周辺に微かに覗く程度である。
 しかし、本書が政治の力を軽視している、というわけではない。著者は、沖縄が美的なイメージとして構築されていく過程を政治的なものとして提示し、沖縄を取り巻く関係の総体を見極めようとするからだ。古き良き琉球王朝の起源に郷愁を寄せるでもなく、現実的に「沖縄」が構築される複数の「始まり」の瞬間を束として捉える著者の筆致は、沖縄の透き通った美に惹かれつつもそれに癒着する政治の泥臭さを毅然と暴き出そうとする。
 一足飛びに「基地の島」の政治を語ることはできない。もはや沖縄は単なる「基地の島」ではないからだ。日米安保の妥協的な解決策によって日本列島から切り離された「基地の島」が、「青い海の島」として再発見され、それが政治的に構築されていく現場を確認すること。その作業なしには、たびたび不幸なニュースになることで噴出する「基地の島」という現実と、観光地化する過程でもはや単なるイメージではなく現実となった「青い海」との間のギャップに苛まれ続けることになる。「基地の島」をほとんど語らない沖縄研究は、非政治的に映るかもしれない。しかし、「基地の島」を語らなくさせている力学が紛れも無い美的/政治的な力学であることを詳らかにすることは、単に「基地の島」というアイデンティティ・ポリティックスに固執する「わかりやすい政治」よりはるかに政治的ではないだろうか。私は「おわりに」を自らを戒めながら、そのように誤読してしまった。
 台風がやってくる際、「台風上陸」ではなく常に「台風通過」として語られる沖縄。しかし、沖縄を日本のありかたそのものを問い直す立脚点として、すなわち「台風発生」の場として語りなおすことができる。本書は、美学と政治学とが混淆する時代の天気図として有用である。
 [蛇足] 宮崎の一葉有料道路あたりの景観の構築が沖縄にも転用されていたと知り、なんだか日本人の南国のイメージってそんなもんなのだな、と妙に感慨深かったりもした。あと、一般の方にも読んでもらいたいという方針で書かれたようだが、それはかなり難しいのではないだろうか。一見簡単そうでも、議論が相当複雑なところがあるので。とはいえ、とにかく地道に資料に当たった労作だと思います。