何キロ歩いたんでしょう?

 起床後、ほどなくして池袋の喫茶店へ。昔はキャバレーだったんですか?、ここは。帰りの経路を確認し、いざ出発。
 日本アメリカ文学会@法政。近くに靖国があるんですねえ。ネタ作りに行こうかと思ったけど、書籍の展示即売会場を巡っていたらタイムアップ。いろいろ出ているのに、結構知らないモンです。そういや、『シニフィアンのかたち』の訳本が並んでた。多分、というか絶対誤解してるんで、また読んでみなくては。
 会長のあいさつと法政大学の学長のあいさつを聞いて、出発。1つ目の発表の部屋に入ったはいいけど、座るのが難しい状況。しかも、レジュメが見当たらず、こりゃしょうがない、と退散。踊り場でタバコを吹かす。と、このときに気付くが、法政大学は喫煙者天国。各階の踊り場に喫煙所が設置され、しかも併設された55年館と58年館それぞれに喫煙所がある、つまり各階2箇所の喫煙所がある。JTと共同研究でもしてるんでしょうか。いいなあ。
 2つ目。「奇人礼賛:社会規範からの逸脱に対するRaymond Carverの政治的姿勢をめぐって」。Carverや彼の作品に対する先行研究の、規範から逸脱する他者を反面教師とする形で、主として白人男性が規範の正当化をしているという批判や、また保守化した社会の行き詰まりをCarverは描きはするもののそれに対する積極的な批判を加えることをしていないという批判を並べた後、最晩年の短編 "Menudo" (1987) を読み直すことでCarverの政治性を問い直す、という発表。最終的に、逸脱者と規範を遵守する者との間に僅かではあるがコミュニケーションのチャンネルが開かれ、他者との融和の可能性が垣間見える。挑戦的な論であり、またCarverの政治性を再評価する端緒を開く発表。規範と逸脱者という2つの対立するものに全てを還元しており、発表の場ではわかりやすくていいのだが、論文になると更なる工夫が必要かと。規範がいったいどのような規範であり(場面場面によって家族倫理だったりChristianityだったり禁酒だったりするのだろう)、それが局所的にどのように機能しているのかを詳しく検討する必要、そして同じく逸脱者の側も人種的他者だったりただの「奇人」だったりするので丁寧に分節化する必要を感じた(逸脱者ももともとは規範に属している人間だったり、始めから属していない人間だったりするので)。また、「奇人」にカテゴライズされた人物が他人の庭を勝手に掃除するシーンは、読者の「一般」常識的には「奇行」として映るのかもしれないが、それは作中においては「規範」である(あるいはそうなる)可能性すらあるような気がする(「奇人」を「奇人」として眺める規範的な人物の方が「奇人」である可能性すらある)。そうした危うさがまたこの作品の魅力であるような気もする。
 3つ目。「クレオールからみたアメリカ合衆国Tar BabyPraisesong for the Widow」。主としてアメリカ合衆国をカリブ=クレオールの側から見つめる構造をもつ両作品(ほとんど後者)をクレオール理論から読んでみる、という発表。寡聞にして知らない文献が示されたので、大変勉強になった。物事の白黒をはっきりつける二者択一的な性格をもつアメリカ的な価値観と、複数のものを並存させていくカリブ的な価値観とが二項対立を成しているということをテクストの中に読み込み、最終的には後者に軍配を上げる(結局、後者を「二者択一」的に選択?)。質問はクレオールの言葉の定義に集中。難しいですねえ。クレオールを静的に捉えていると指摘されたF先生の質問に止めを刺すと思われる。私が真っ先に思いついた質問は、アメリカvsカリブのpower relationsの問題である。つまり、文化的にはカリブの方がいくら優れていようが、そこには資本主義的な不可逆の波があるわけで(A Small PlaceにおけるKincaidの批判を忘れてはならない)。そこにこの2つの同時代的作品を並列させる意味があるのではないか(片方はカリブについて殆ど知らないアメリカ黒人女性作家で、もう片方はバルバドスに縁の深い作家)。もっとも、これもF先生がやんわりとおっしゃっていたので、私ごときの出る幕ではない。片方の比重が高すぎるように感じたので、同時代的な歴史的条件に気配りをして両作品をつき合わせて読むと、大変面白くなるのではと感じた。
 4つ目。「主体形成と現実認識:Melvilleの "Benito Cereno"」。大変濃厚な発表。しかし濃厚すぎてスピードが速すぎる上にやや滑舌が…。細部までは分かりません。知と資本主義の特権的主体として君臨するアメリカ人船長デラノー。そして彼に黒人Baboは従属している。歴史的には当時、アメリカでは奴隷の蜂起が盛んであり、その黒人たちを従順なsamboとして表象する傾向があった。まさにBaboをbaboonとして、従順な存在へとフェティシュ化するデラノーの知の主体としてのあり方は、当時の白人支配階層の戦略と相似形を成しているということになる。こうして保たれる主人/奴隷の構造は、しかし、他ならぬ主人が奴隷と異人種間同性愛を欲望する局面において「ジェンダー・トラブル」を誘引し、脱構築へと至る。知の主体であったはずのデラノーは、男性中心/異性愛主体から逸脱し、ついには主人/奴隷の安定的な構造を脅かし、過度に美化された家族的homosocialな幻想に浸る一方で現実にはまとめて資本主義の奴隷と化す(?)。発表者は知の主体が奴隷と化す過程に、言説の構築性ではなく、「誰が言説を操作しているか」、というMelvilleの問題意識を見ようとしていた。質問は、最後に主人を騙すBaboに主体性はあるのではないか、知の主体デラノーを語る語り手による言説操作の問題、つまり語り手の知の主体としての観点はないのか、などなど。個人的には、反乱を起こす奴隷をsambo化しきれず、反抗的なNatというステレオタイプも当時流通していたはずで、そこも含めて考える必要があるのではないか、とささやかながら思った。質疑応答は実に見事。質問者をまずは全肯定して、そののち徐々に部分否定して、自分の主張をする、という手際のよさは、是非参考にしたい。私には無理だろうけど。
 懇親会や明日のシンポに後ろ髪をガンガン引かれながらも、終わるとすぐにメトロで空港へ(乗り継ぎのとき、歩くなあ、しかし)。空港でカレー。空港のエスカレーターでキスしているバカップルに、「欧米か!」とツッコもうかと思ったが止めた。飛行機→特急→在来線で日付が変わるころ、帰宅。