「10完歩編」PART1→http://www.youtube.com/watch?v=waoYHqE05Vs&mode=related&search=
「10完歩編」PART2→http://www.youtube.com/watch?v=J30kAfKtS04&mode=related&search=
「10完歩編」メイキング→http://www.youtube.com/watch?v=9IMpgI2qIyg
「21世紀へ」→http://www.youtube.com/watch?v=lx4fb-FGkBs&mode=related&search=
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2006/07/01
- メディア: 新書
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2章:日猶同祖論(ユダヤ人の言説が万世一系的ナショナリズムの基盤として流通する=受難の物語の奪用)
3章:陰謀史観(機械的にひとつの事象をひとつの原因へと短絡させる思考に根ざしている)とファシズム(「人間は永遠に変化しない生得的なカテゴリーに釘付けにされている」という前提に立って初めて成り立つ)の親和性
終章:ユダヤ人の存在論。犯した罪に対する有責性から自らを規定する(非ユダヤ人)⇔犯していない罪に対する有責性から自らを規定する(ユダヤ人)。そのディタッチメントこそがユダヤ人問題であり、世界を構成する原理である。というところまで命がけの飛躍を試みる。
レヴィナスにおいて、隣人愛の倫理を究極的に基礎づけるのは、私に命令を下す神ではなく、神の命令を「外傷的な仕方」で(つまり間違った仕方で)聞き取ってしまった私自身である。
人間は間違うことによってはじめて正しくなることができる。人間はいまここに存在することを、端的に「存在する」としてではなく、「遅れて到来した」という仕方で受け止めることではじめて人間的たりうる。そのような迂路によってレヴィナスは人間性を基礎づけたのである。(225)
感想:3章までは「ユダヤ人」を構成する「ユダヤ人」の語られ方に焦点を合わせている。一転して、終章では、「ユダヤ人」を構成するユダヤ人へと話が転換していく。いや、一転して、というよりも、語られる「ユダヤ人」からユダヤ人の起源、ただし起源としてすんなり定立し得ない起源へと遡行していくという感じか。終章のユダヤ人は、ユダヤ人一般というよりも、なんだかレヴィナスのことを指しているように感じた。そうだとしたら、本書はユダヤ人の探求を通じて、著者自身の思考の基盤であるレヴィナスへの遡行をも含意しているのかもしれない。なんちゃって。
私たちの記憶に残るのは「納得のいく言葉」ではなく、むしろ「片づかない言葉」である。(中略)
それを呑み込もうと苦しがり、とにかくそれを「消化」するために役立ちそうな情報や知識ばかりを選択的に摂取しているうちに、気がついたら、その「棘」を中心にして私の思考や感受性が組織されてしまっているということがある。それは「私が棘を呑み込んだ」というよりはむしろ「それを<棘>と感じないように私自身の喉の構造や機能を組み替えた」というのに近い。(160-61)