中年童貞

 もろもろ。一人暮らし3日目。弁当。そろそろ弁当飽きてきた。
 なんか今日はサッカー日本代表の試合が目白押しなのだそうで。ちらっと全部観ました。エトー本当に来たのか。ナイジェリア凄すぎ。平山高いなあ。終わり。

中年童貞 ―少子化時代の恋愛格差― (扶桑社新書)

中年童貞 ―少子化時代の恋愛格差― (扶桑社新書)

 古本屋で目に留まったので買って読んでみた。30分で読める。中年にして「童貞」の著者が、ひとりでも多くの童貞を救おうと「全国童貞連合」なる組織を立ち上げた経験をベースとして、「童貞」とはなんぞや、と問う本。
 データを示して「中年童貞」問題解決が少子化問題解決に繋がっていることを示したり、「童貞」のイメージをインタヴュー等で抽出したり、「童貞」内部の亀裂(喪失派/保守派/解脱派)を対談形式で示したり、恋愛至上主義者(室井ユヅキなど)と激論を戦わせたり、著者自身の鬱屈した失恋エピソードを披露したり。
 著者は、コミュニケーションが苦手な人間の周りには、自然と同じような境遇の人間が集まってくる、という。そのコミュニティの中で「童貞」であることを慰めあっていても、コミュニケーション能力が磨かれることはなく、負のスパイラルにひたすら落ち込む。ましてやコミュニティの内部で互いに慰めあうためのネガティヴな傷としての「童貞」を外部に開陳したところで、負のスパイラルを強化する方向に向かうのは目に見えている。「童貞」であるということは、その人を好奇のまなざしの「対象」として固定化し(「あの人は童貞なのか、かわいそうに。(オレは経験済みだもんね)」)、その人の内部で「童貞」以外のアイデンティティを削除していく効果しかもたらさないのではないか(「オレは会社員でも日本人でも異性愛者でも右翼でもなく、童貞なんだ」)。
 結局、「童貞」の問題というのは、自分を主体化するのではなく、極限まで対象化する方向へ向かう、というところに尽きるように思われる(経験者側の対象化する視線をなぞる)。いや、むしろ、経験者側の視線と自分自身の内向きの視線が重なっていることに気づかない、そのことに対して違和感を感じない、あるいは気づいていても掘り下げないことの方が問題のように思える。*1違和感を感じないのであれば、「童貞」というカテゴリーを敢えて明示化することに政治的意味はない。自慰行為の羅列に満ちた著者自身の失恋エピソードは、そうした鈍感さを如実に物語っているように思える。*2
 とはいえ、批判がないからといって、悪いわけでもない。「全国童貞連合」を失恋の復讐のために立ち上げた著者は、「経験者」になろうとする。著者の希望は、本書のユーモアに溢れた語り口が雄弁に物語っているし、何よりも本書を世に問うこと自体がそれを事後的に証明している。「童貞」である自分を極限まで対象化した著者は、「経験者」(つまり、「経験者」であることを意識しない立場)を強く目指すようになったということ。「童貞」を「童貞」としてまなざす視線はそのまま放置されるけれども、「同化」という方向性もそんなに悪くはない。悪循環のスパイラルに落ち込むよりは、はるかに健全だと思う。
 あまり精通していない話題なのでちょっと的外れな記述のような気もするが、このへんで。

*1:「経験者」が性器の大きさを自慢したり、体験人数をひけらかしたりするのも、ある意味「童貞」の鬱屈した自己愛を裏返した明るい(がゆえに悪辣な)ナルシシズムに見える。

*2:もてない男」は、自分を(「もてない男」として)対象化する一方で、自分を対象化する視線そのもの(あるいはその向こう側)をも徹底的に(恋愛至上主義イデオロギーとして)対象化していく。加えて、『もてない男』に、コミュニケーションが苦手な人間だけで連帯しようという発想は、皆無である。