ゲーム理論

 もろもろ。一人暮らし4日目。弁当に飽きたのでカップ焼ソバ。うまい。
 「やまだかつてないテレビ」を観た。ある笑いが面白くないのは、受け手の笑いのレベルが上がったからでもその人が知的に洗練されたからでもなく、もちろんその笑いが低俗だからでもなく、単に受け手が歳をとったからだ、ということがよく分かる番組。大江千里とか森口博子とか森末慎二とか川合俊一とか、凄いキャスティング。渡辺徹、太ってるなあ。ラッキー池田、どこ行った。「やまかつウィンク」は、デュオの対称性という法則を見事にぶち壊した非対称アイドル(?)デュオ。端的に言うと、片方が今川焼きなら、もう片方はお好み焼き。遠近法のフィルターをかけないと、厳しいなあ。
 
 

ゲーム理論を読みとく (ちくま新書)

ゲーム理論を読みとく (ちくま新書)

 なかなか歯ごたえがある良書。以前、社会学の先生と話したときに、ゲーム理論言語ゲームを取り違えてしまったことが脳裏によぎって、読んでみようと思った次第。両者は、ある意味正反対の理論なのだなあ。
 
 ゲーム理論とは、「予測不可能性や遊動性という特徴を本来もっている行為連関や社会関係を、厳密なルールや固定したメカニズムに従うプロセスに擬して、見かけの上で確定的な結果や政策を導き出そうとする理論」のこと(129)。その理論が対象とするのは、合理性が無条件に前提され、また言語的なコミュニケーションを排除することで成立する閉鎖的な世界となる。しかも非合理的な選択や言語的な対話は予め禁止されているため、他者はその場にはいないということになる。全く同じ地平に立つ複数のプレイヤーは、それが何人であろうと「計算する独房の理性」と呼ばれる「独房に座って観察・計算・操作を行うような単数形の理性」(28)へと還元される。だから、ゲーム理論は、「人間と社会にとって不可欠のもの、決して無視できないもの」、つまりコミュニケーションや不確定性を排除して初めて成立するということになる。
 「囚人のジレンマ」に始まり、冷戦下、特にベトナム戦争の戦略分析の一種として生まれたゲーム理論の生い立ち、天才数学者の伝記的映画『ビューティフル・マインド』のモデルとなった数学者のナッシュ均衡を事例として並べる中で、著者は様々なゲーム理論の変種がことごとく「計算する独房の理性」に行き着くことを例証していく。
 ある程度、二者の相反する利益追求を調停する非協力ゲームを概観した後、著者は進化ゲームへと話を振る。ドーキンスの『利己的な遺伝子』、すなわちネオ・ダーウィニズムをもとにした進化ゲームは、「信号や状況そのもので情報のやりとりを考える」ゲーム以上にコミュニケーションの次元を無視し、全てを自然淘汰へと還元するという意味で、著者はより退行していると見る(遺伝子/ミーム理論に対する多くの批判も含む)。
 シリコンバレー経済と遊びについて短く考察した後、著者は最終的に戦争や構造的暴力の問題に行き着く。冷戦下の戦争戦略の一環として生まれたゲーム理論を決定的に突き崩す地点は、やはりその暫定的な起源としての戦争ということになる。狂人の論理を排除して機能する理性的なゲーム理論は、暴力がミメーシス的伝染により非理性的な暴力の主体を次々と生み出していくことに関して無頓着となる(ここらへんはアドルノ)。そこでは、暴力は合理的解決の一手段に過ぎない。しかし、実際の暴力は「敵」を生む。敵でも味方でもないプレイヤーが離合集散を繰り返すだけのゲーム理論に、敵や暴力は語れない。暴力によって生まれた敵は、合理的解決を望むわけではないからだ。ゲーム理論を生み出した戦争は、ゲーム理論が戦争を語れないことを事後的に証明している。ゲーム理論から教訓を引き出すとすれば、ゲーム理論の場で起こる出来事を規定し、解決に導くものはゲーム理論の外部にしかないということだろう。
 理性の限界を目撃したような、そんな気分になる一冊。もちろん、理性の限界を突き詰めて考えて初めて、その外部の重要性がよくわかるという点は、心に留めておかなければならないと思う。(本書では批判が先行しているが)そういう意味でゲーム理論も無視できない理論のひとつだと思う。

[追記] アマゾンのレヴューを見るともの凄い評価が割れていて興味深い。主にゲーム理論を専門的に学んでいる人が辛い点をつけているよう。しかし、ゲーム理論の最新の動向が反映されていないことやゲーム理論の解釈の誤りを指摘するものがほとんどで、誰も根本的な問題、「計算する独房の理性」に触れていない。その辺は専門家の人から見てどうなのか。
 参考→http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1077.html。個別合理性/社会的合理性について書くのを忘れていた。セイゴオさんの書評はその辺もちゃんと押えている。