もろもろ。一人暮らし最終日。弁当。
ちょっと歩いただけで汗がダラダラ。ほんとに暑いなあ。
- 荒 このみ
- 講談社
- 1890円
livedoor BOOKS
書評/ルポルタージュ
世界中で、特にパリにおいて一世を風靡した「琥珀の女王」、ジョセフィン・ベイカーの伝記。
物語は、ジョセフィンの来日から始まる。戦後が幕を開けてまもない1954年、来日したジョセフィンは、講演と公演で全国を巡る。ダンサーとして、それから歌手として世界を魅了し続けてきた女王の面目躍如。しかし、女王が来日したのは、すでに成就した成功の夢を復興の途にある異国の地でただ再現するためではなかった。彼女の未だ見果てぬ夢、「虹の部族」実現に向けた第一歩を記すことこそ、彼女の来日の目的だった。彼女の自作の童話絵本『虹の部族』に描かれた全世界の孤児の代表からなる差別根絶の象徴家族、「虹の部族」の構築こそ、エンターテインメントの前線を走り続けた彼女が夢見た最後の夢だった。ジョセフィンは、日本で当時社会問題化していた混血孤児を2人引き取って、夢に胸を膨らませて帰路につく。
エンターテイナーと反人種主義活動家。ジョセフィンの初来日は、毀誉褒貶相半ばする彼女の二つの顔を余すことなく描出するための下地を用意する上で、格好の出来事であり、また彼女の晩年の栄光に反影を織り込む徴候的な出来事でもあった。語り手は、日本の読者のために馴染みのない異国の女王に親近感を持てる輪郭を与える効果をもたらすと共に、彼女の物語の全ての要素を物語の始まりに凝縮させる。優れた物語は、始まりに全てが詰まっている。
以下、ほぼ編年体で、時に行きつ戻りつ、ジョセフィンの一生が語られる。
黒を黒で塗りつぶすブラック・フェイスに代表されるように、過剰に黒人であることを求められたパフォーマーとして、ハーレム・ルネッサンス下のニューヨークで地歩を固めたジョセフィン。文字通り天衣無縫の野生的なダンサーとして、洗練されたパリのモダンを補完したジョセフィン。ニューヨークのナイトクラブで、中南米の講演で、世界各地の公演で、公民権運動を先取りして人種主義廃絶を訴えたジョセフィン。赤狩り最盛期のアメリカでの非米的にも映る活動によって、例に洩れずFBIの監視下に置かれたジョセフィン。「虹の部族」を実現させていく過程で、世界中から脚光を浴びたジョセフィン。「虹の家族」の母体となったフランスの古城での煌びやかな生活を維持できず、破産の憂き目に遭い、不遇をかこったジョセフィン。
ジョセフィンの荒唐無稽で奔放な生涯を追う語りは、しばしば困惑気味に映る。それでも、やんわりとした批判もところどころに加えつつ、語りはジョセフィンを温かく包み込む。時々マイケル・ジャクソンを思わせる傍若無人ぶりも、天才にありがちなきまぐれさとしてユーモアをもって語られる。決して政治的信念をもっているとは言えないジョセフィンの理想主義に過ぎる政治的な活動も、彼女の経験と時代の制約を考慮して静かに語られる。
もちろん、本書の物語はジョセフィンの自伝的情報の羅列だけには留まらない。これまで文化・文学研究を世間知に還元する数多くの本を上梓してきた著者は、本書に文化史的性格を併せ持たせることにも成功している。アメリカ黒人に静止したイメージを投影すると同時に、アメリカ白人の主体性を遡及的に構成した「アメリカン・アフリカニズム」(アメリカ黒人に対する幻想)の対象となったジョセフィンが、今度はパリにおいて植民地主義的なパラダイムの影響下で「エグゾティシズム」(exoticism)の対象となった、という分析はその代表的な事例であろう。*1 見慣れた黒人を過剰に黒く塗りつぶす(あるいは空白として描く)ことで異化する「アメリカン・アフリカニズム」と、覆いを外した黒い裸体という見慣れない外部を求める「エグゾティシズム」、双方向から対象化されたジョセフィンのあり様に、モダンの機制の屈折した反映を見るのは文化史的に興味深い試みだと思う。*2
晴れがましい舞台上だけではなく、舞台裏の文化史も魅力的だ。アメリカ南部を中心とした人種主義の跋扈、そしてそれに対する国際社会の反応について的確に要約されている。ジョセフィンがFBIの監視を受ける主因ともなった「カフェ・ソサイエティ」の記述もまた大いに興味をそそられる内容となっている。
物語の語り手は、ある意味客観的な語り手とは言えない。日本、フランス、アメリカと、ジョセフィンの残した絵本『虹の部族』を求めて、世界を渡り歩く。ジョセフィンの足跡を辿って、追体験を重ねながら書かれた本書は、「虹の部族」を求めたジョセフィンの旅を彼女の夢を共有しながら豊かに跡付けている。
*1:Rosaldoあたりがもしかしたら参考になるかもしれない。
*2:本書の記述では、どちらかといえば、アメリカン・アフリカニズムとエグゾティシズムをほぼ同じものとしてみなしているように見受けられる(67-68)。その説明では、アメリカ社会とフランス社会における黒人の立場の違い、彼らに対するアメリカ白人/フランス人の欲望の違い(77)を説明できない。また、本書は裸のジョセフィンにある種の超克を見出しているが、一度服を脱いでプリミティヴな存在として文明社会の眼を保養したパフォーマーが、その後服を着ても受け入れられていく過程にこそ、彼女の主体性の生起を認めるべきではないか、とささやかながら感じる。