Joyce Ann Joyce. "African-centered scholarship: Interrogating black studies, pan africanism, and afrocentricity"
 黒人研究におけるアフリカ(文化)中心主義の立ち位置精査を導きの糸として、黒人研究のあり方・方向性を自身の体験を交えながら説く論文。
 まずは代表的なAfrocentricity論、Stephen HoweとWilson Jeremiah Mosesの論を概観。両者ともに、Afrocentricityを黒人の自尊心を醸成するために黒人の自己同一性を知性的・学術的とはいえないやり方で強化する方法として位置づける。Joyceは、これに反して、HoweのAfrocentricityに対する首尾一貫した拒否とMosesのそれをvindicationismとして扱う姿勢を「新歴史主義」(!?)を用いて批判する。詳細は省くが、結局のところ、ここでは両者の正統的で不変の歴史や文化を絶対視する客観的記述や知的特権階級のみを優遇するエリート主義が問題となる。
 Joyceは、かつて大学教育に黒人研究が導入された頃の理想、すなわち大学のカリキュラムを変えるという大学人としての目標と黒人コミュニティのQOLを改善するという市井の一員としての目標に立ち返るよう求める。また彼女は、白人学者を黒人研究から排する傾向も批判する。「人種」が一種の天の配剤ではなく、社会的構築物であり、また政治的な関係の帰結ならば、お互いを理解し、関係を変えていくために黒人研究は白人にとっても重要になる。一部のafrocentristを排するエリート主義や、白人研究者を疎外する例外主義は、象牙の塔内部の権力闘争ならいざ知らず、人種関係を改善する一助となるべき黒人研究にとっては躓きの石以外の何物でもない。最後にJoyceは、知性と実践を融合し、アカデミアを地域のコミュニティに位置づける10の提言を行う。
 "the Black Arts Movements" の影響を受けていることを正直に明かすJoyceは、やはり旧来のアメリカ黒人中心的傾向の枠内にあるように思う(biographyからideologyを切り離そうとしているらしいが)。それは白人研究者の参入を歓迎しつつも黒人研究者が研究をリードすべき、と表明する箇所や、外国における黒人研究が無視され、アメリカのアカデミアの範囲内に留まっていることからも窺える。また、わざわざ「新歴史主義」を "the Western concept" と断っておっかなびっくり利用する(NHでなくともよい気がする)あたりにも、Joyceの保守性をみてとることができる。しかし、それでもJoyceの大局観は確かであるし、日々変化していく黒人研究という「仏」に公民権運動の遺産とも言うべき<コミュニティに根ざした研究>という「魂」を入れるという提言は、良識的な保守派にしかできないことであるように思われる。黒人文化がアメリカ文化を変容させ、数多の若い "wiggers" の存在が社会現象ともなっている現代アメリカにおいて、黒人研究は象牙の塔の中ではできないし、一部のエリートだけがやるものでもない。文化をジャンクなものにも見ようとするベンヤミンにも通ずる開けた姿勢が、本質的には保守派に属する知識人に見られるのはやはり自由の国アメリカだからなのだろうか。
 それにしても、コミュニティに「介入」するって、一体どうしたらよいのか。せいぜい草刈りに参加するぐらいだなあ、黒人コミュニティじゃないけど。