ポー文学総覧

ディズマル・スワンプのアメリカン・ルネサンス ―ポーとダークキャノン

ディズマル・スワンプのアメリカン・ルネサンス ―ポーとダークキャノン

ご恵投賜った伊藤紹子『ディズマル・スワンプのアメリカン・ルネッサンス』読了。
ポー作品における水、沼、海を始めとする環境、キメラや混血といった異形、ダゲレオタイプやサイボーグといったテクノロジーポストモダン/ポストヒューマンとの関わり、と縦横無尽、実に幅広い。特に「ライジィーア」における石化やJ・キャロル・オーツによるアダプテーションに関心をもった。アメリカにおける滞在研究の成果もふんだんに用いられ、図版の数も多い。本書の成立事情から勘案してまとまりの乏しさは致し方ないところはあるが、裏返ってポー研究の射程を総覧・通覧する上で格好の一冊だと言えるだろう。
恩師の一人をただ褒めそやすことにはまったく意味を見いだせないので(ステマはしない主義なので)、批判だけに絞る。
全体に目を向けると、ポーを起源とする後続への継承や影響、なにかとポーを先駆者とする持ち上げ、時代がポーに追いつく、といった記述は、アダプテーション論の観点からいって不適切だし(もちろん『アルンハイムへの道」がイギリスロマン派からの影響を扱っている以上、対する本書がポーからの影響という方向に比重が傾くのは理解できる)、ポーの剽窃に近い創作法に鑑みても正鵠を得ているとは言いがたい。マシーセンのアメリカン・ルネッサンス論を「キャノン」制定の論拠とし、これを前提とした記述にも違和感がある。キャノン神話については依然本場アメリカでも根強いが、批評的フレームとしては機能不全に陥っており、そろそろ代替わりが必要だと思われる。
各論においては、機械によって生かされている機械人間をもってハラウェイのサイボーグやポストヒューマン理論に言及することにどれほど意味があるのか疑問に思うし、奴隷体験記における検閲を白人と黒人の共同作業としてしまう短絡は気になる。
また、ダゲレオタイプデュパンの視覚的推理能力の範となっている、という指摘はたいへんおもしろいが、それが三次元的に展開される、とする箇所には留保を付けておきたい。デュパンは表面にのみ真実を認める理念の持ち主であった。「群衆の人」のような人間の内面に立ち入らない/立ち入れないという禁欲、表面のみに理性を働かせるところにポーの観察の特異性はあるように思う。この表面性の対極にある「井戸の底に真実がある」というデモクリトスの格言を追求する『ピム』の恐怖との関係を問う可能性はないだろうか。表面に働く技術的理性とそれでも届かない「井戸の底」に根源的恐怖を認めるという構図は、ポー文学の基調を成しているように思う。
だが、以上のような批判を着想し、乗り越えたいと思わせるだけの厚みと重みをもった一冊であることは疑いようがない。圧倒的な学術的献身に心からの敬意を表する。