よくわかる慰安婦問題

 てげてげ。朝から豪雨。夕方になると静かになる。
 カレーを作ろうと思っていたのに、カレー粉を買うのを忘れる。しょうがないので、鯛のアラ入り味噌汁と鶏肉の炒め物。明日こそ。

 
 
 日本の正史を巡る論争のみならず、近年の東アジア情勢、さらには対米関係にまで影響しかねない「慰安婦問題」に関する議論を、論争に関わった当事者がまとめる。「慰安婦問題」とは、先の大戦中に日本軍が主として朝鮮半島から多くの婦女子を強制的に徴用し、兵士の慰安婦として従事させたという説を巡る論争であり、証言の信用性、一次資料の信頼性、女性差別の批判、広義の奴隷制批判、メディアの利害関係等の複雑な諸要素がその解決困難な状況を構成している。
 本書での主張は、大まかに言って次の3点に集約される。
 1.「従軍慰安婦問題」の争点は軍による強制徴用があったか否か、つまり国家による関与があったが否かであり、資料の有無の観点から軍の関与は証明できない、という主張。小林よしのりも同様の主張を自著において繰り返し論証しており、また慰安婦の側に立って慰安婦に対する補償を求める学者も、現時点では軍の関与を実証することができないことを事実上認めている。争点としては主に、強制的に徴用され一般的な従軍労働に従事する「挺身隊」と自発的に性労働に従事する「慰安婦」との混同の如何が挙げられる。強制性の否定に関しては、すでに日本国内においては人口に膾炙していると考えて差し支えない。ただし、週刊誌やウェブを除くテレビ・新聞等の大手メディアの多くは、沈黙を貫いており、著者は広報戦略の点から劣勢にあるという認識を持っている。
 2.「従軍慰安婦」に対する待遇は、当時の売春婦に対するものと同等のものであり、「性奴隷」として処遇されていたという説は捏造である、という主張。近年では、軍の関与が認められるか否か、ではなく、「従軍慰安婦」が「性奴隷」であったか否か、が議論の争点となりつつあるようだ。慰安婦側は「書き写すだけで気分が悪くなるような」(167)証言を繰り返し、売春婦ではなく性奴隷だった自らの来歴を認知してもらおうと努める。著者は、これに対し、慰安婦側の「性奴隷」的処遇を被ったとする証言は、当初の証言では見られず、旗色が悪いと見て捏造したものではないか、と断じ、元慰安婦が当時東京で家が五軒買えるほどの財を成した事実から、彼女たちは売春婦に他ならなかった、と主張する。この論点では、証言の信頼性vs資料の有無という慰安婦問題特有の争点が浮き彫りとなっている。
 3.事実関係を把握していないにも拘らず日本政府は韓国に対して謝罪してしまったために、国際的に日本は性奴隷制を容認する国家だというイメージが流布した、政府はイメージ回復に努めなければならない、という主張。俗に言う「河野談話」が、資料的裏づけのとれていない慰安婦徴用の強制性を<間接的な強制性>へと拡大解釈して認知し、謝罪した、という転回をもって、日本の評判は地に堕ちた。安倍首相が狭義の強制性を否定する談話を出した後も、批判は熱を帯び、米国下院における非難決議へと至っている。著者は、裏づけのない風聞を細心の注意を払いながら裏づけ、慰安婦の実態について国際的に宣伝し、日本のイメージ回復を優先しなければならない、と主張している。
 以上の3点、すなわち、1.強制性の有無(ない)、2.性奴隷という評価の妥当性(ない)、3.謝罪orイメージの回復(後者)が著者の主張である。多少の予備知識はあるものの、この問題に対して専門的な知識があるわけではない私は、積極的に著者の主張を評価すべき立場にはない。私見を披露するのは差し控える。が、少なくとも本書は、慰安婦問題の前線で活躍してきた著者の手によるリーダブルな概説本となっており、まさしく表題の通り「よくわかる」類の著書であることは疑うべくもない。ただし、語られている内容はともかく、その語り方が本書の説得力を貶めている観は否めない。
 というのも、著者は冒頭から「新しい歴史教科書をつくる会」を「良識的」と評し、また本書の主張と対立する陣営を首尾一貫して「左派」と位置づけることで、本書の学術的な分析を「よくわかる」イデオロギー対立の構図に回収してしまっている。特に第4章「日本外交の失態」以降、その傾向には拍車がかかり、慰安婦の擁護をする自国人を「反日日本人」と名付けることで議論は一気にナショナリズムを煽るかのような扇情的な方角へと舵を取る。
 

 日本の「反日」日本人が火をつける前は、韓国には韓国人の常識があって、どの国でも、それぞれ自国のことをよく言うはずだ、どこの国にも愛国心というのがあるはずだ、日本人も愛国心は持っているはずだから、たとえ事実だとしても、外国に来て、自国の悪口を言ったら、日本に帰って袋叩きにあうのではないかと心配してくれていたのである(149)

 第5章「世界に広がる『性奴隷』のイメージ」に至ると、著者はドイツのフランクフルト学派まで遡り、左翼全体を徹底的に「非難」する。「われわれとしては、こういう大きな枠[左翼の残党が跋扈する現状]の中で慰安婦問題への対応を考えていかなくてはならないと思う」(154)という著者は、すでに歴史学の範疇にはいない。著者は、旧式のイデオロギー闘争を戦っている。「もろに偏向しているプロパガンダのような番組」(155)に対する「批判」が「非難」にしか聞こえないのは、冷静に論証できるだけの材料も能力も併せ持つはずの著者が、あるイデオロギーに自己同一化し、本書をまた別の形のイデオロギッシュな「プロパガンダ」へと貶めてしまっているからではないか。
 最後に著者はこう述べて本書を締めくくる。

 彼ら[「反日」日本人]は国際社会に膨大なネットワークを築き、こつこつと資料を集め、国際法の詭弁を開発し、私たちの祖国、そして彼らの祖国、この美しい国・日本を貶め続けている。この人たちの "反日執念" こそが、私たちの敵だ。
 彼らがこの十五年間、いかにひどいウソをつき続けてきたかを、事実にもとづききちんと国際社会に訴える、それをすれば、絶対に私たちは勝てる。なぜなら、彼らはウソつきだからである。(212)

 自身のイデオロギー的立ち位置を一切隠すことなく、むしろ言祝ぎながら「美しい国・日本」へと何の矛盾もなく自己同一化する著者がここにいる。確かにこの「闘争」に勝つことは可能かもしれない。しかし、その勝利は他者の説得と同義ではない。白地に紅という「日の丸」を模したデザインで予め「慰安婦問題」の語り方を予告している本書は、慰安婦問題という内容をナショナリズムという画一化された語り口へと包摂する。イデオロギーを曝しても構わない。しかし、そのイデオロギーに対する自身との距離に対しては意識的である必要があるのではないか。読み手の(左右関係なく)イデオロギーに対する批判的距離が問われる一冊である。