文化の受容と変貌

 

文化の受容と変貌 (シリーズ・アメリカ研究の越境)

文化の受容と変貌 (シリーズ・アメリカ研究の越境)

 シリーズ完結篇。
 日米関係に焦点を絞った論文が並ぶ。
 終章「文化変容の変容」が示唆的で面白い。文化変容理論に対して文化の変容が先行している、という研究の現状に対する危機を表明したもの。新しい現実に対処するために、新しい語彙を、理論を創出する必要がある、ということ。この人の文章はいつも刺激的。
 巻末には座談会。代表的なアメリカ研究者が一堂に会し、アメリカ研究について語り合う。アメリカ文学って外から見てると、やっぱり変だったんだ、というのがよく伝わる。K御大や守旧派をめぐる微妙な関係も透けて見えて、この辺は一筋縄ではいかぬなあ、と。Aさんなんかはまさに芸風に一子相伝的なものがあるので、まあしょうがないし、どちらにしても面白ければそれでいいと思う。そして、ここでも生井の発言はやっぱり面白い。頭いいなあ、この人。こちらの頭も活発に回りだす。テクストとコンテクストをイコンとインデックスに置き換えて説明するあたり、参りました。
 特に面白かった論考をいくつか列挙。新英米文学社を嚆矢とする、アメリカ(文学)研究の流れを、現在の状況にひきつけて論じる「アメリカのアカデミズムと日本のアメリカ文学研究」。守旧派と「新動向」との間の綱引きは、まだまだ続くのだろうなあ、と。まあ、それにしても
 

「文学」と名づけられたものにだけ文学を限定しようとするのは、最も嗤うべきことで、文学的現実が社会的現実や思想的現実一般から、独立であり得ないことは、今更云う迄もあるまい。文学という名の下に現われたものばかりが文学たるべきものでなく、そういうものとして現われねばならぬ一定の必然をもったものこそ、本来文学たるべきものだ。

という批判を、戸川潤が1936年にやっていたというところがまあすごい。ギリシャ時代以来の伝統をもつ「最近の若者は」という枕詞から始まる若者批判ほどではないにしても、文学/歴史の(擬似)対立をもって、(純)文学を擁護しようという人たちに対する批判というのもわりと伝統があるのだなあ、と思い至った。
 日本におけるジャズ受容黎明期を追った「スウィング・ニッポン」も白眉。ジャズ愛好家自体まだまだ少ないころの話だが、黒人好きと黒人嫌いがすでにいたというあたりに吃驚。
 文化翻訳の(不)可能性を文体そのもので表現し、ポストモダン時代の小説の可能性を切り開いた、と村上を評価する「メイキング・オブ・村上春樹」には納得。なんで村上春樹が好きなのかについて納得するか、あるいはなんで嫌いなのかについて納得するか。どちらにしても、取捨・愛憎の交点が、村上文学の魅力なんだろうと思う。文化翻訳の問題とあわせて、この論文はそうした交点について巧みに分析している。