内野と外野

 もろもろ。弁当。
 
 光市母子殺害事件に関連して、人気弁護士が弁護士法を盾に懲罰請求を煽ったとかで問題になっているらしい。確かにあの弁護団が法廷戦略に加えた急激な面舵一杯には、不自然な印象を受ける。弁護士が元少年に入れ知恵して、方針転換が行われたという推測もあながち的外れなものではないのかもしれない。しかし、懲罰請求の可否や裏づけをしっかりとらなかった結果、問われる責任の軽重、あるいは被告弁護団側からの提訴の行方というような騒動そのものに、私は全く関心がない。

 私が疑問に思うのは、どうしてあの弁護士はあんなに法を絶対的に信頼しているのだろう、ということ*1。多分、例の人気弁護士は、遺族の感情を慮って法に訴えたのだろう(正確には視聴者を扇動した)。けれど、テレビに多数出演し、発言力のある弁護士だけに、他にも方法はいくらでもあったように思う。損なわれた遺族の感情を満たす方法は、法に訴えるだけではないはずだ。
 遺族が、しかるべき法的裁きが被告に下るよう、全身全霊を傾けているのは理解する。しかし、周りの人間が遺族と同じように、法ばかりに意識を集中させ、被告が合法的に死刑になる以外の選択肢はないと信じ込まなければならないような状況を作り出そうとするはいかがなものか*2。そのような状況は、遺族を法の中に追い詰めることになる。法の場で望ましい結果が得られなかったら、遺族には徒労感以外の何も残らなくなる。
 何もせずとも法の裁きは下る。無期懲役なのか、死刑なのか、あるいは他の判決が下るのかはわからない。その結果を受けて、遺族の心に開いた穴が何かで満たされるのか、どうかもわからない。「外野」の人間ができることは、裁判の経過や結果がどのようなものであろうと、法の外側から支援することぐらいなのではないか。法に対して法で介入するような越権行為は、法が全てを解決してくれる、というような過剰な法の特権化を煽り、遺族を「法的解決が全て」という幻想へと追い込む結果につながる。
 「外野」は、法の外部に立つのがよいのではないか。司法の場でどんな結果が下ろうと、法廷闘争の過程や事件の痛ましさを共有し、遺族感情を受け止める場として、「外野」は法の外に留まるのがよいのではないか。「外野」に飛んでくる打球は、ポップフライなのか、大飛球なのか、強烈なライナーなのかわからないが、「外野」が「内野」の守備範囲にまで干渉すると、「外野」に飛んできたボールはフィールドをゆくあてもなく転々と転がることになるのではないか、とささやかながら憂慮する。「外野」は定位置につくのが基本だと思う。

*1:その弁護士も出演する有名な番組は、法(解釈)の絶対性を否定する番組だと、私は思っていた。でも、出演している当人は、 法の専門家としての権力行使に酔いしれているということか。いずれにしても、あの番組で面白いのは弁護士なんかではなくて、司会者のフリートークだけだとは思うけど。弁護士番組だったら、上沼恵美子がいつも吼えまくっている仁鶴師匠の番組の方がはるかによい。

*2:現実には、弁護士を批判する人の方が多いわけだし、それに遺族も今のところ反応していないわけなので、弁護士の一人相撲といったところか。健全だと思う。