真剣師・小池重明

 スーパーのレジ、今日はアニメ声のおばさんだった。口から声が出ている、というより、頭のどこかにリコーダーサイズの穴が開いていて、そこがちゃんと塞げていないせいで音が漏れているような、そんな声だった。「ゴーヤ98円」。萌え。

真剣師小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫)

真剣師小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫)

 ブラジルのホモ・ルーデンス―サッカー批評原論は、従来のサッカーオタクを再生産するだけの「サッカー評論」をフットボールに悖(もと)る退屈なカテナチオと一刀両断、ブラジルのサッカー文化の分析を踏み切り板にして、サッカーを普遍へと開く「サッカー批評」キックオフを試みる、というかなりの「奇書」だった。そこでは、セクシーフットボールさながらの言語遊戯が展開される。現代サッカーに求められるような合理的・効率性から身を引いた文体、「論理のアクロバット」(都筑道夫)はそこらのサッカー語りとは一線を画す。身体論やドラッグ論においては、パス回しに終始してシュートを打たなかったり、打っても枠に飛ばなかったりと、あまり成功しているとは思わないが、後半にいくに従ってじんわりおもしろくなってくる。とりわけ、賭博について論じた章は、眠っていたギャンブラーの血が騒ぎ、かぶりついて読んだ。
 まずは、ロジェ・カイヨワ*1森巣博*2を動員して(この組み合わせも凄い)、必ずお上が勝つようにできている公営ギャンブルに切り込んでいく。賭博は、なけなしの金をつぎ込む民衆だけではなく、胴元までも負ける可能性を孕んでいるこそ、賭ける価値があるんじゃないのか。誰もが勝つチャンス、誰もが敗者へと転落する危うさが賭博の魅力を担保しているというわけだ。運試しといいながら、ちゃんと試算をもとに経営されているギャンブルなんか、テラ銭ばかり高くて、やってられない、と。
 それはそうだ、JRAなんか25パーセントもふんだくりやがるんだ、と毒づきながらガス抜きの続きを期待するも、今福は、はっと我に返ったように、ブラジル賭博の本質、遊戯性へと的を絞っていく。そして、ブラジルの市井の裏で密かに、しかし公然と営まれている動物賭博に瞠目するプラハ生まれのユダヤ人思想家ヴィレム・フルッサーの慧眼に、目から鱗をばらばら落とす。
 

  これらの人々が勝負に勝つことを期待して賭けているのだという考えは誤りである。むしろ正反対に、彼らは勝つことを期待してはいない。彼らはただ、勝利や成功という結果を、不可測の領域に投げ出しておきたい、と望んでいるのだ。そしてそういう行為だけが、彼らにとっての希望を生み出す。(132)

 

 ここから今福は、ブラジルサッカーの遊戯性にもとづく現実原則を「勝敗原理を不可測の領域へと投げ出す衝動につらぬかれた、ホモ・ルーデンスたちの運動」として導きだす。
 つまり、(たぶん)こういうことだ。ブラジルの人々の日常は、資本主義経済が浸透した結果もたらされる優勝劣敗の原則をもたない。というのも、彼らは勝ち負けなんかどうでもいい、と思って毎日過ごしているからだ。彼らはギャンブルでも、勝ち負けや出世/没落といったものの一切合財を、目に見えない予測不能などこか、神の領域のようなところに投げ出してしまう。競馬場で勝利と成功を求めて「家賃家賃」と鬨の声を上げているわれわれとは次元が違うのだ。われわれのように勝利を近くの必然へと手繰り寄せようとするのではなく、勝ち/負けの命運を分ける「/」そのもの、すなわち「賽」そのものを遠くの偶然へと投げる。
 ホモ・ルーデンスは決して賽を振らない。勝負そのものを賽に託して、しかもそれをどこか遠く見えない場所に向けて放るのである。*3
 壮大な前説になったが、さて小池重明だ。小池は類稀な棋才に恵まれながら、裏切り、駆け落ち、放浪、そしてUターンして謝罪、再び真面目に生きる、という順路を何度も往還した。プロ棋士を平手で破るほどの棋力は、アマ日本一の栄光を彼にもたらしたが、日のあたる場所を長くは歩けない小池にとって、そうした眩しい光は真剣師稼業の蹉跌でしかなかった。裏街道で、博打に、そして真剣将棋に、酔いどれ明け暮れた。煩わしい勝敗だの成功/没落だのをわが身から引き剥がし、どこか遠くに投げ出して遊戯的な人生を確保するのがホモ・ルーデンスなら、小池は生活破綻者、破滅者だ。
 真剣師小池重明の光と影 (小学館文庫)団鬼六はこう書いている。

 

終生、放浪癖の抜けなかった天衣無縫の男だった。女に狂い、酒に溺れた荒唐無稽の男だった。これ程、主題があり、そして、曲がり角だらけの小説に似た生涯を送った人間は珍しい。小池は晩年は不遇だったというが、それは小池を愛惜する言葉にならない。真剣師が不遇な生涯を送るのは当然で、それは本人も意識した事だろう。あれだけの将棋の天才でありながら、たったひとつしかない人生に、それを生かし切れず、四十四歳の短い人生を気前よく投げてしまった男。やっぱり小池はすごい奴だった。(54)

 
 賽を振るでも、賽を投げるでもなく、全部を、人生を、自分をどこか遠くに投げちゃった男。人生をギャンブルの彼岸で繰り広げた男。ホモ・ルーデンスを越えたら破滅が待っている。でも、それが分かっていながらそうせざるを得なかった男。悲劇であると同時に、喜劇だったりもして、一筋縄では括れない、たまらなく魅力的な男。
 賭博の胴元などをやっていた父を持ち、晩年の小池をもう一度表舞台で輝かせた団鬼六だからこそ創れる佳肴たち。うまかった。堪能した。*4 

*1:『本能』。知らない。

*2:名著『ろくでなしのバラッド』。読まねば。

*3:卵と鶏の話のように、ギャンブルがブラジル人の遊戯性を生み出しているのか、遊戯性がブラジル人のギャンブルに対する姿勢を育んでいるのかはわからない。相補的なのかな。

*4:『果たし合い』はしばらく団の付き人をしていたたこ八郎の思い出を綴る佳品が収められた将棋エッセー集で、表題作は小池が臨んだ最後の大勝負を時代劇『切腹』になぞらえ語ったもの。『真剣師小池重明』は説明不要、傑作中の傑作。