アーキテクチャ

NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ

NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ

 昨今話題のアーキテクチャ特集。
 共同討議「アーキテクチャと思考の場所」。濱野智史宇野常寛による問題提起のあと、東浩紀の交通整理のもと、磯崎新浅田彰宮台真司が加わり、自由闊達に討論。
 濱野は、マンハッタンの都市計画や磯崎新の建築に言及しながら、可塑性の高いウェブの設計を「擬似的な自然環境」として論じ、ソフトの生成変化を阻害せず、しかし「電子の森」が暴走しない程度にコントロールするようなハード、インフラの設計を課題として挙げる。
 宇野常寛は濱野のハード重視の問題提起に抗う。メッセージの強度よりもコミュニケーションの円滑さが優位にある時代にあって、「コミュニケーションのためのコミュニケーション」という同語反復的な交通が優位になり、批評や批判もまたそうしたコミュニケーションの潤滑油として消費されてしまっている。コミュニケーションの回路としての「アーキテクチャ」に語ることはもちろん重要なことだが、その回路を伝うメッセージの内容にもっと目を向けるべきではないか。コミュニケーションとメッセージ、この両翼の関係を捉えなおしてこそ、新時代の批評の道は開けるのではないか、と宇野はバランスをとる。
 若手二人の問題提起を根底から否定するのが、浅田彰。浅田は、マクルーハンや経済学の動向を踏まえて、75年以来、アーキテクチャをめぐる問題の諸相は何も変わっていない、と断言する。新しい言葉に飛びついて、古い状況が新鮮に映っているだけだ、といわんばかりの浅田の舌鋒を、司会の東が、グローバル・ヴィレッジからローカル・ヴィレッジズへと細分化が進んだ現状に鑑みれば、何も変わっていない、という断言は、言い過ぎだ、とたしなめる。
 ここで磯崎が登場し、自分の仕事に言及してくれた濱野に敬意を表しながら、自分の過去の仕事を振り返る。大分県立図書館の話は非常に興味深かった。が、「閣外者」磯崎は本シンポにおける最大の問題点をやんわりと指摘するのも忘れない。第一に、アーキテクチャの意味が拡大しすぎて、アーキテクチャという問題設定が枠としてちゃんと機能していない、ということ。第二に、アーキテクチャの設計者、アーキテクトの存在(不在)をどう捉えればいいのか。そして第三に、アーキテクチャの歴史はどうなっているのか。
 東はアーキテクチャの定義について、デリダの署名の話を持ち出し、際限なく「終わり」や「切断」が繰り延べされる運動に喩え、宮台が磯崎に応える。
 正しい行為を促し、不正を抑止するアフォーダンスのような社会設計、ハイエクの「自生社会」を枠組みにして、アーキテクチャの定義を図る。しかし、設計の意図とその帰結は必ず齟齬をきたす。不測のリスクが生じる。そうした複雑極まるリスクを処理するには、絶対的な中心に決定を委任するようなガバナンスではなく、市民によるすりあわせが必須となる。*1
 と、ここまでの議論はまあまあおもしろかったが、某巨大掲示板の管理人の話になるあたりから滅法つまらなくなる。アーキテクチャーの雛形として卑近すぎるし、地に足が着いた議論とはいい難い。*2
 終盤の議論で目を惹くのは、宮台の前向性記憶障害の話。『メメント』の主人公は、古いことは覚えているが、新しいことは何も記憶できない。ログ(メモ)は残すが、それが埋め込まれているはずの文脈を覚えていない。今の市井の人々は前向性記憶障害に罹患しているのではないか。古い記憶と直近の出来事とが有機的に連続しておらず、新しい展開や切断や転回が起こっても、その新しさを理解できない。つまり、画期的な「切断」に先んじて、予め主体の時間が切断してしまっているのではないか、ということだろうと思う。*3
 だが、なんといってもこのシンポの盲点で、かつアーキテクチャの問題系でもっとも問題含みで、おもしろいと思われる部分を抉り出しているのは、以下の磯崎の発言だろう。
 

それはアーキテクチャといったメタフィジカルなレベルのものを、フィジカルなものに変換する必要があって、それはある理論を社会に関係づけることとも同じだと思うんですが、つまり、「変換」の必要があるわけです。いま、自動的にアーキテクチャを作動させていくという議論はわかります。だけど、ヴァーチャルのなかでしか存在しないものを、どういうふうにアクチュアルなものに変換するするかという、変換のモメントややり方についてはまったく議論がされていない。そういうものがなぜ必要なのかということもはっきりしてない。僕自身は建物を作るための「変換」をすることが自分の仕事なわけですね。その変換のきっかけが「切断」だった。いま、自動的にプラットフォームができあがり、それがレイヤーされていくような建築が生まれていくという構図はわかってきた。その上で僕がお聞きしたいのは、ではそこでわかってきたものをどこにトランスファーするのか、そこでできあがったものがいい悪いという判断はどこに使えるのか、どういう局面に応用できるのか。その変換の仕方を具体的に議論していただけると、もっと問題の核心が見えてくるんじゃないでしょうか。(70)

このシンポに限らず、この手の知識人の議論は、ぽんぽんぽんぽん視点のレベルが移動して、メタへさらにメタへと流れていく。特にひどいのが宮台で、東から冒頭での発言と矛盾している、と突っ込まれると、「自覚しています。僕は本当になんでも好きなんですよ(笑)」と煙に巻く。メタフィジカルが悪いわけではないが、少なくともある一定のメタフィジカルなレベルにこだわって、視点を定めないとまともな話にはならない。「フィジカルはどこだ、変換しなくていいのか」という磯崎の疑問は、そういうふわふわした軽薄さにも由来しているだろう。
 とまれ、「終わり」が繰り延べされ、永遠に生成変化するように見えるアーキテクチャーをフィジカルへと変換する、つまり一旦止めて建築として見せるのが、批評家の役割であり責任だろう。宇野常寛鈴木謙介は、そういう方向へと、つまり、システムだけではなく、その中に生きる生身の人間が生み出す変数を診ようとしているように映る。

*1:鈴木謙介「設計される意欲―自発性を引き出すアーキテクチャ」は、メタへメタへと視点が揺動しがちなこの特集の中でもっとも腰が据わった卓抜した論文だった。鈴木は、「設計者による人々の潜在意識への「洗脳」ではなく、「設計者と利用者の間の相互作用と、両者を取り巻く多くの変数」がアーキテクチャ内部における自発的行動を促している、と指摘する。「上からの洗脳」ではなく、ファストフードに代表される「自己啓発系」の自発的な意識改革や、学校において設計された意欲が職場にまで敷衍されている例を分析している。だが、設計どおりにはいかない。意欲がまったく湧かないものや野放図に青天井の意欲を増長させていくもの、とアーキテクチャの及ぼす作用はさまざまだ。鈴木は、そうした人々の分岐を生む変数の分析に関心を向ける。問題の諸相を、支配者や権力者、イデオロギーに対する市民の受動性へと還元せず、従来的な枠組みであれば、被害者として同情的にみられる人々の積極性、自発性を俎上に載せる分析装置として、アーキテクチャは有効であると思う。

*2:そもそもウェブにこれ以上新しい思考の場所を切り開く余地があるとは思えない。『批評空間』が無視したサブカルチャーやネット空間を俎上に載せるのはいいが、そればっかりになっているように気がする。それ以上に、ネット上の「コミュニケーションのためのコミュニケーション」の形式をまんまなぞって、ネタとしてしか消費されないようなものが批評足りえるのかどうか。ネタについてベタに論じても、新しいネタになるだけ。私の心境は、「ネタとベタが複雑に絡み合うボクらのメンタリティって新しいよね、みたいな話に結局は流れがちなわけですが、そんなことを確認しても仕方ない」と断ずる宇野に近い。

*3:これは、福嶋亮大ホモ・エコノミクスの書く偽史」での議論とも共振する。俗に言う「歴史の終わり」のあとであっても、歴史や時間が消えるわけではなく、歴史に対する新しい関わり方が生まれる。福嶋は、レヴィ=ストロースをひいて、正統的な起源のないモノの稗史的な起源を捏造することで、手元にある時間の流転を押しとどめるポスト・ヒストリー時代の想像力のことを「偽史的想像力」と呼んでいる。この想像力によって生み出される起源は、ただ起源であれさえすればよいような、「無意味な物質性」を特徴とする。福嶋は、村上春樹の諸作品やシューティングゲームに「偽史的想像力」を認め、言語ではなく物質による、表象ではなく現前によるコミュニケーションの可能性をみている。『1Q84』にも思い当たるふしが。