夏が過ぎて、秋も過ぎて、もうすぐ冬が

 あ、あ、本日は晴天なり、本日は晴天なり。
 隣の客はよく柿急客だ。

 

 7月。
 大極宮(大澤在昌、京極夏彦宮部みゆき)のトークショウ。バー通いを仕事と強弁する大澤、妖怪界への参与観察が昂じて自ら妖怪になってしまった京極、意外というかやっぱりというかアニメ声の宮部。各自、振り分けられた役割とキャラの理解に長けていた。宮部がぼけて、大澤がツッこんで、京極が混ぜっ返す、という一連の流れは、フォードの生産ラインのように滑らかだった。小説を「経営」するには、これぐらいのそつのなさとサービス精神がなければいかんのだろう。

 釜山行。二泊三日。動くジグソーパズルみたいな活き蛸を踊り食った。アングロサクソンバックパッカー二人組が少女のように「てりぶる」を連呼する隣で、モンゴロイドの私はわしわし食った。箸でつまむとうにうに動くが、口の中に入れると観念する。うちの嫁もふた切れほど口に入れた。踊っていたのは嫁のほうだった。

 

 8月。
 涼しかった。嫁はソウルに出張。覚えていることといえばプレミアリーグが始まったぐらいのもので、あとは忘れた。

 

 9月。
 道後温泉で友人の結婚式。当日は朝四時まで呑んで、ちょっと寝て、翌日、というかそのまま、できたてほやほやの新郎新婦の自宅訪問、海鮮焼きを食べに行ったりして丸一日つきあってもらう。ケニヤの話は愉快だった。行き帰りのフェリーの枕が高かったせいか、以後しばらく首を痛め、頭痛に悩む。

 二度目の釜山行。今度は一週間。朝起きて、飯食って、カフェで各々仕事をして、飯食って、カフェで各々仕事をして、温泉か銭湯に行って、さっぱりしたところで飯食って、ちょっと酒呑んで寝る、という生活を繰り返した。湯治ともいう。カシノにも行こうかとちょっと考えたが、「一千万以上のタマがないやつはやるな」という森巣博の警告に従って諦めた。
 毎朝、秘結に春を感じた。ときどき猛暑がやってきて、そのたびに韓国人はみんな人工○門なのではないかと想像した。
 変り種では蚕の幼生の佃煮を食べた。干し海老みたいな味で、酒の肴にいい。
 帰国後も首と頭は痛かったが、しばらくしたら気が済んだようで、どこかにいなくなった。

 

 10月。
 歯周病の治療が終わった。親知らずのほうは、CTを撮った結果、全身麻酔で抜歯して一週間入院、という非情なお沙汰が下った。敷地内全面禁煙という刑務所よりも劣悪な環境に一週間も軟禁される(おまけに手術の二週間前から禁煙する)覚悟がまだないので、しばらく様子見する。

 ほかはそれなりに欧州のサッカーの試合を観て、(『サクリファイス』の影響を受けて)それなりに欧州のチャリンコレースを観て、それなりに本を読んで、それなりに将棋を打って、それなりに麻雀して、それなりに銭湯に行って、それなりにいろいろして、それなりに旨いものを食う毎日。

 

 小説。恋愛小説の分野は苦手なので佐藤正午は敬遠していたが『身の上話』はなかなかよかった。宝くじで二億円当てたら再読してみよう。あとは本多孝好。物語のスケールは小さいが、繊細で間の取りかたが巧い。純文学でもいけそうな気がする。何を読んでもほぼ外れのないユーモア作家荻原浩の『オイアウエ漂流記』がベストか。トンガ付近の架空の島に向かう途中、オンボロ飛行機はやっぱり墜ちて、会社の上司・部下・得意先、新婚カップル、老人と少年、環境テロリスト、今は亡き機長の犬が無人島で共同生活を営む。連載ものなので、終盤にかけての失速はしょうがない。そんなことより、この人に呆け老人を書かせたらたぶん日本一だろう。

 

 ノンフィクション部門では、まずは森巣博の最新刊。ひとみばあさんみたいに、何回も同じこと言っていたのがおかしかった。いまごろ読んだが、辺見庸の『もの食う人々』はオールタイムベスト級の傑作だと思う。が、文庫版に余計な後書き(国家など糞食らえうんぬん)はつけるべきではなかった。佐藤亜紀外人術』は、私のなかでは『沖縄を撃つ』と並んで、旅行本リストの頂に立つ。外国語学習の件では、あたりまえのようでいて誰もいっていないんじゃないかというようなこと、つまりコロンブスの卵のようなことを、最短距離を通ってズバリと衝いている。


 
 アカデミックな本はほどほどに。ぱっと思い出せる範囲では、今福龍太の東京外大の講義録『書物の身体』がよかった。万人ウケはしないだろうけど。