本をめぐる遊歩(その2)

 

書物の蒐集家にとって、よく知られている入手方法のうちで最も骨の折れないのは、図書を借りてかつ返さないというやり方です。私たちがいまここでありありと思い浮かべることができるような、並はずれた図書借りだし魔は、根っからの書籍蒐集家であることがわかります。それはたとえば、彼が借り集めた宝物を大切に守り、しかも法的生活の日常から発せられる一切の警告に耳を塞ぎ続ける、その熱烈なる心情によって明らかになるばかりではなく、それよりもずっと、彼もまたその借り集めた本を読みはしない、ということによって証明されるのです。
ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)「蔵書の荷解きをする 蒐集の話」

 
 本を集めることと本を読むことが直結していた幸福な時代を代表するのが、ドン・キホーテだろうか。わたしが知る限り、ドン・キホーテはもっとも熱心な読者でありながら、もっとも狂った蒐集家として歴史に名を残している。騎士道物語を片っぱしから集めてきては濫読し、耽溺のあまり、自分を騎士だと勘違いする。彼にとって目に映るものすべては騎士道物語に出てくる小道具であり、出来事は騎士としての栄華を極めるに至るまでの小さなステップに他ならない。おまけに前篇が世に出回って海賊版までが幅を利かせ始めた頃に書かれた後篇では、ドン・キホーテは歴程の道中、著名な騎士として扱われ始める。後篇の登場人物たちは前篇におけるドン・キホーテの冒険の顛末を読んで、彼のことを知悉したうえでからっているというわけ。かくして、騎士道物語への耽溺は、ドン・キホーテ個人だけではなく、前篇の読者が後篇の登場人物になってしまうというところまで波及する。騎士道物語のパロディのパロディ。大したおふさげではないか。
 おそらくは騎士道物語への愛着が彼を狂気へと誘ったというのが『ドン・キホーテ』解釈の王道だろう。だが、わたしは、彼が狂気へと接近する条件を整えたのは、基底音としての愛着に、欲望の上方倍音列を順繰り重ねてしまう、蒐集の魔力ではないか、と思う。本が集められていく過程で、個々の物語を超えた、騎士道の鉄鎖が彼を囲繞する。まるで鎖に繋がれた揺籃期本のように、ドン・キホーテは中世冒険譚魔方陣の虜囚となる。ドン・キホーテは、中世に一方ならぬ愛着と郷愁を寄せる愛すべき老人であると共に、近代の狂気を予告する、蒐集の怪物なのかもしれない。ベンヤミンは蒐集家についてこうも言う。「一冊の古い本を手に入れることは、この本の新生に他なりません」と。彼方に去った中世という時代の騎士道物語を生きるドン・キホーテは模範的な蒐集家だろう。彼は「蒐集家の老人的な性質と浸透しあっている、その子供的な性質」を見事に備えている。
 本の蒐集家はたいてい狂っている。書物の敵 (講談社学術文庫)によれば、蒐集家たちのなかには、貴重な本を集めるだけ集めて自分が死ぬときに一緒に埋めてしまう豪傑もいたという。ミステリに描かれる書物蒐集家はたいてい狂っている。たとえば、サフォンと並ぶ現代スペイン小説の売れっ子、ペレス=レベルテのナインスゲート (集英社文庫)*1では陽性の狂気が、ジョン・ダニングの死の蔵書 (ハヤカワ・ミステリ文庫)では陰性の狂気が描かれる*2。とりわけ『薔薇の名前』におけるホルヘ*3などはその動機からして、模範的な蒐集魔、蔵書狂だろう。蒐集家の世界は治外法権の色を帯びる。本を際限なく渉猟して、増殖を続ける本の森のなかに生きる蔵書狂は、ファウスト的狂気を蓄え、世俗から自律する小部屋の「乱雑さ」に身を委ねる。
 だが、蒐集したものを選別し、不要なものは廃棄して独身者の世界*4を拵える、さかしま (河出文庫)のデ・ゼッサントは典型的蒐集家の亜種に留まるのかもしれない。というのも部屋を外界から離断されたひとつの世界として<完結>させるためには、蒐集とともに理性的な選別が彼我を画する敷居となるのだろうから。海底二万里 (創元SF文庫)におけるネモ船長の潜水艦も同様だろうか。スペースが限定されているか、限定する必要がある場合、蒐集と選別は表裏一体となる。無分別な蒐集は選別の篩にかけられる。完成した空間は、もはや野放図さと整然さのどちらに振れることもなく、そのどちらともを含んだ不気味さを湛えている。 

*1:ペレス=レベルテといえば、カメラマンと画家を切り結ぶ戦場の記憶を描いた戦場の画家 (集英社文庫)は傑作だった。

*2:ある蔵書狂の老人はたくさんの稀覯本を所有しながらそれらには一切手をつけない。全く同じ本の廉価版を揃えた書棚が別にあり、彼は読書をそちらで楽しんでいる。蔵書と読書は切り離されている。保存用と観賞用として二冊本を購入する人もいるだろう。しかし、秘匿された書棚と読まれる書棚に並べられた本が寸分違わず同じ、というどこかずれた几帳面さには背筋が凍る。

*3:「バベルの図書館」等で著名なボルヘスがモデル。ボルヘス自身、国立図書館の館長を務めていた。しかも失明後に。

*4:いみじくも、機能主義を追求したル・コルビジェは、住居を機械と呼んでいる。デ・ゼッサントにとって、部屋は彼を独身者の機械として調教する場所だったのかもしれない。